小塚原回向院(刑死者供養の寺・観臓記念碑)|何があった場所か
小塚原刑場の刑死者・牢死者を供養するため、1667年に本所回向院の別院として開かれた寺。杉田玄白らの腑分けを記念する観臓記念碑が立ち、安政の大獄で刑死した吉田松陰・橋本左内らの墓所が残る。刑場跡の中心部(延命寺・首切地蔵)は線路を挟んだ南側にある(別項参照)。

近くの痕跡
- 小塚原刑場跡(延命寺・首切地蔵)(死の痕跡・約385m)
- 浄閑寺(新吉原総霊塔・「投込寺」と呼ばれた寺)(死の痕跡・約529m)
- 石浜城跡(武蔵千葉氏の拠点・石浜神社付近)(戦の痕跡・約1.0km)
- 千束池(姫ヶ池)跡と「千束」の地名(水の痕跡・約1.4km)
時のながれ
- 1667年(寛文7年) — 本所の回向院が、牢死者や刑死者等を供養するためにこの地に別院を開いた。
- 1771年(明和8年)頃 — 杉田玄白・前野良沢らが刑死者の腑分けに立ち会い、これを機に『解体新書』が翻訳・刊行されたとされる。境内に観臓記念碑が立つ。
- 1859年(安政6年)前後 — 安政の大獄で刑死した吉田松陰・橋本左内らが葬られ、現在も墓所が残る。
- 明治時代以降 — 刑場は明治初期に廃止。明治28年(1895)の土浦線(現在のJR常磐貨物線)の敷設工事で敷地が線路に分断され、北側が回向院、南側が延命寺として現在に至る。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 1667年(寛文7年)に刑死者・牢死者の供養のため開かれたこと、吉田松陰・橋本左内らの墓所があることは、荒川区の公式で確認した。
そのため、このページではこうしています
- ピンは回向院の位置である(座標は概略)。
- 現役の寺院であり墓所である。公開の範囲に従い、無断で堂内・墓所へ立ち入らないこと。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 埋葬された人数については、資料によって幅があり確定していない。
この痕跡を掘り下げた記事
参考・出典
2件出典に基づいて掲載している
- 回向院(えこういん)
荒川区公式サイト - 南千住再発見 延命寺
荒川区(アーカイブ)
訂正履歴
公開後に内容を改めた箇所を、日付とともに記録している。
- :年表の「明治時代以降」の項を書き直した。「常磐線の敷設で敷地が分かれ」は出典欄の資料に記述が無かったため、分断を記す荒川区のアーカイブ記事を出典に足し、「明治28年(1895)の土浦線(現在のJR常磐貨物線)の敷設工事で敷地が線路に分断され」という同記事の書き方に合わせた。
この場所について
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