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鈴ヶ森刑場跡(東海道に面した刑場と、大経寺に集められた台石・題目供養塔)|何があった場所か

自治体史・公的アーカイブ・碑文や現地の掲示など、一次資料で内容を確認済みの情報です。
位置精度: 施設特定(ピンは品川区が都指定文化財の所在地として記す南大井2-5-6・大経寺) / 最終確認日: 2026-09-15

鈴ヶ森刑場は、慶安4年(1651)から明治4年(1871)まで東海道に面して置かれていた江戸の刑場である。跡地は東京都品川区南大井2-5-6の日蓮宗大経寺の境内にあたり、処刑に使われたといわれる台石が集められ、首洗いの井戸や供養塔が残る。京急線大森海岸駅から歩いて7分。

品川区南大井2-5-6。品川区は「区内にある都および国の指定文化財」の一覧で、都指定文化財の旧跡の部に「鈴ヶ森遺跡(南大井2丁目)」を挙げ、所在地を「南大井2-5-6 大経寺内」、所有者(管理者)を大経寺とする。しながわ観光協会は、鈴ヶ森刑場が小塚原(荒川区)とならぶ江戸の処刑場で、慶安4年(1651)に開設されたと記す。跡地はいま文久2年(1862)に開かれた日蓮宗大経寺の境内にあたり、処刑に使用したといわれる台石や首洗いの井戸などが残されているほか、近代以降の様々な供養塔が建てられている、と同じ案内は続ける。

刑場の広さは数字で残っている。同じ案内は、東海道に面しており元禄8年(1695)の検地によると、間口40間(約74m)、奥行8間(約16.2m)の規模があったと記す。交通は京急線大森海岸駅から徒歩7分。74メートル×16メートルという寸法は、境内をひと回りすれば端から端まで届く広さである。

なぜ東海道沿いのこの場所だったのかは、大経寺が書いている。それまで江戸の刑場は北の浅草・南の芝の二ヶ所に設けられていたが、幕府成立から半世紀近くたち人口も増え、刑場付近まで人家が立ち並ぶようになったので、より人目につかないところへ移されることになった、と同寺は記す。芝から移されたのがこの鈴ヶ森刑場だと歴史の書に記されている、とも続ける。街道沿いという立地は、街道を選んだのではなく、人家から離れた場所を選んだ結果として書かれている。

「鈴ヶ森」という名の由来も資料に残っている。大経寺は、当時は目の前に海岸線が開けており、刑場は波打ち際にあった1本の老松にちなんで「一本松」と呼ばれていたが、大井村の隣の不入斗(いりやまず)村に鈴ヶ森八幡があったことから、いつの間にか「鈴ヶ森」と呼ばれるようになったといわれる、と記す。しながわ観光協会は同じ社を「鈴森八幡宮(現磐井神社)」と書き、鈴ヶ森の名はそこに由来するとする。刑場の名は、刑場そのものではなく、隣の村の八幡から来ている。

刑場は明治4年(1871)に廃止された。大経寺は、処刑に使われた台石や多くの供養塔が境内に集められ、昭和29年には「鈴ヶ森刑場跡」として東京都史蹟の指定を受けたと記す。境内に並ぶ石は、集められた石である。歌舞伎『浮世柄比翼稲妻(鈴ヶ森)』で有名な題目供養塔は、高さ3m超の石塔にひげ文字で南無妙法蓮華経と書かれ、裏面には元禄11年(1698)の年号とこの供養塔を建立した法春比丘尼、谷口氏の名が刻まれている、としながわ観光協会は記す。

鈴ヶ森刑場跡(東海道に面した刑場と、大経寺に集められた台石・題目供養塔)の位置を示す地図
この地点の地図(地理院タイルに地点を加筆)

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