鴨川(賀茂川)の氾濫史(出雲路橋周辺・昭和10年大水害)|何があった場所か

白河法皇が思い通りにならないものとして「賀茂川の水」を挙げたと伝わるほど、氾濫を繰り返した川。寛文期(1670年頃)に両岸へ石堤が築かれて河原が市街地化し、昭和10年(1935)の大水害後の抜本改修で現在の姿になった。穏やかな河川敷は治水の積み重ねの上にある。

近くの痕跡
- 応仁の乱 勃発地(御霊神社・御霊合戦の旧跡)(戦の痕跡・約481m)
- 薩摩藩邸跡(二本松屋敷・同志社大学西門前の石標)(地の痕跡・約1.1km)
- 猿ヶ辻(京都御所の築地塀で鬼門の角だけを欠いた一画)(方位の痕跡・約1.2km)
- 百々橋の礎石(応仁の乱で東西両軍が争った橋の跡)(戦の痕跡・約1.4km)
時のながれ
- 平安期 — 鴨川はたびたび氾濫し、白河法皇が「天下三不如意」の一つに賀茂川の水を挙げたと伝わる。
- 寛文期(1670年頃) — 寛文9〜10年(1669〜70)に両岸へ石堤(寛文新堤)が築かれ、それまで左右に河原が広がる自然河川だった鴨川の河原が市街地化される。現在の鴨川景観の基礎となった。
- 昭和10年(1935)6月29日 — 豪雨で京都市内の河川が氾濫し、鴨川では三条・五条大橋などほぼ9割の橋が流失した。桂川・天神川など他河川を含む京都市全域で死傷者83名・家屋流出187棟・浸水4万棟超の被害が出た(鴨川大洪水)。
- 昭和11〜22年 — 抜本的な河川改修が実施され、昭和34年8月の戦後最大洪水では鴨川からの浸水被害を出さない水準に達した。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 京都府の公式で、昭和10年の大洪水の被害(京都市全域で死傷者83名、家屋流出187棟、全半壊295棟、浸水43,289棟)、昭和11年から22年にかけての抜本的な河川改修、昭和34年8月の戦後最大の洪水で浸水被害が出なかったことを確認した。
- 寛文新堤と「天下三不如意」は、京都市歴史資料館の都市史年表で確認した。
そのため、このページではこうしています
- 氾濫は流域全体に及ぶため、座標は賀茂川の出雲路橋を代表点としている。被害の範囲を示すものではない。
現地確認: 未実施
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
この痕跡を掘り下げた記事
参考・出典
2件出典に基づいて掲載している
- 昭和10年の鴨川大洪水とその後の治水対策について
京都府 - 都市史08 鴨川
京都市(京都市歴史資料館)
訂正履歴
公開後に内容を改めた箇所を、日付とともに記録している。
- :時のながれの2項目を、京都府と京都市の資料に合わせて改めた。昭和10年の水害の項は、出典に無い「堤防が決壊し」を外し、鴨川ではほぼ9割の橋が流失したこと、被害の数字は桂川・天神川など他の川を含む京都市全域のものであることを添えた。呼び名も出典どおり「鴨川大洪水」とした。寛文の新堤の項も、「流れが固定される」を出典の言い方どおり、両岸に石堤が築かれて河原が市街地化された、とした。
- :9月28日の訂正が時のながれにとどまり、説明文に旧の記述(「寛文期(1670年頃)の新堤築造で流路が固定され」)が残っていたため、同じ内容に改めた。出典の言い方どおり、両岸に石堤が築かれて河原が市街地化した、とした。
この場所について
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