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中央区千日前二丁目の履歴書

せんにちまえにちょうめ

大阪府中央区 / 〒542-0074

氏名
千日前二丁目
生年
1982年昭和57年2月1日の住居表示で、旧・河原町一〜二丁目/難波新地一〜六番町/南阪町の各一部から
出身
旧・難波村(河原町・難波新地・南阪町)
身長
約 3.6 m
体質
砂州・砂丘
経歴
痕跡11件(町域内2・徒歩圏9)
最古の記録
元和6年(1620)千日墓所の成立と伝える
未解明
7件

※標高・地形は町の代表点の値。

千日前二丁目の町域と周辺の痕跡を示す地図
千日前二丁目の町域と、周辺の痕跡(『令和2年国勢調査 小地域境界データ』(総務省統計局)を加工して作成/地理院タイルに加筆)

道頓堀川の南、千日前通と商店街にはさまれた町だ。南北およそ180m、東西およそ320m。面積は約4万5千平方メートルで、端から端まで歩いても数分しかかからない。

その狭い町域の中に、当サイトが登録した痕跡が2件ある。町域の輪郭から1km以内には、さらに9件ある。

町名としての「千日前二丁目」は、昭和57年(1982)にできた新しい名前だ。一方で「千日前」という呼び名そのものは、江戸期の文書にすでに出てくる。

地形

項目値
標高(代表点)約 3.6 m
標高データの精度: 5m(レーザ)
地形分類(自然地形)砂州・砂丘
主に現在や昔の海岸・湖岸・河岸沿いにあり、周囲より高い砂礫質な土地。波によって打ち上げられた砂や礫、風によって運ばれた砂が堆積することでできる。

代表点: 北緯 34.666234 / 東経 135.504036(『令和2年国勢調査 小地域境界データ』(総務省統計局)を加工して作成)

出典: 国土地理院。標高は標高API、地形分類はベクトルタイル提供実験「地形分類」を加工して作成。

※地形分類は、その分類に一般的な成り立ちを示すものです。個別の土地の状態や安全性を示すものではありません。

234560200400道頓堀川の南岸5.1 m千日前二丁目3.6 m南海なんば駅前2.7 m横軸=水平距離(m)/縦軸=標高(m)。縦は横の約66倍に誇張標高: 国土地理院 標高API(5m(レーザ))
道頓堀川の南岸 → 千日前二丁目 → 南海なんば駅前 の標高断面(地理院 標高APIの値。縦は誇張)

表紙に書いた標高と地形は、町の代表点にあたる一点で測ったものだ。町域すべてがこうだとは限らない。

分類は「砂州・砂丘」。国土地理院の説明は、現在や昔の海岸・湖岸・河岸沿いにあって周囲より高い砂礫質の土地、としている。ビルと看板で埋まった繁華街の下には、かつての水辺に沿ってできた砂の高まりがある。

道頓堀川の南岸から南海なんば駅前まで、約600mを9点に刻んで標高を引いてみた。北の川沿いが5.1m、町の中を通るあたりで3.6m、南の駅前で2.7m。歩いていて坂を感じる場所ではないが、北から南へ2.4mだけ下っている。

地名の由来

『日本歴史地名大系』の「千日前」の項は、この名がもともと通りの名だったと書いている。法善寺(千日寺)の東側、道頓堀立慶町と道頓堀吉左衛門町のあいだにある南北の通りで、千日墓所への道を指した、と。寛政9年(1797)の道頓堀吉左衛門町の式目定に「戎橋通り千日通り両角屋敷」と出てくるのが、その通り名の用例である。

同じ項によれば、法善寺が「千日寺」と称されるのは延宝(1673-81)ごろからで、「千日前」の呼称もこの頃生まれたと推定される。正徳年間(1711-16)の文書には「千日墓道」「千日御仕置場」の語が見える。この頃には、法善寺前一帯の呼び名として定着していたようだ。

では、なぜ「千日」なのか。千日前商店街の公式サイトは、法善寺と竹林寺がここで千日回向という念仏供養を行ったことによるとし、それは「一回参ったら、千日間参ったのと同じとする」ものだったと説明している。ブリタニカ国際大百科事典も、千日念仏で知られる法善寺(別称・千日寺)の門前に発達した地区であることに由来する、とする。

ただし、名前のもとになった寺は、いまこの町にない。『日本歴史地名大系』は法善寺の現在地名を「南区難波一丁目」(同書が書かれた当時の区名)と記す。竹林寺のほうは、大阪市中央区の旧町名の解説が、千日前通に「松園山竹林寺の碑」が立っていると書く。町の名を生んだ二つの寺のうち、一つは隣の町にあり、もう一つは碑だけが残っている。

この町と周辺の痕跡

江戸期の墓所、明治の興行街、1972年の火災。この町の痕跡と、境のすぐ外にある痕跡を地図に置くと、数百メートルの範囲に時代の違う記録が並ぶ。

同じ場所に重なっている記録町域の輪郭=令和2年国勢調査の境界。印=記録のある地点N11972年・火災の地(町域内)2千日前の土地の記憶(町域内)3刑場・墓所跡町域の外・約60m100 m墓所と刑場の広がりは資料に無いため、範囲は描いていない境界:『令和2年国勢調査 小地域境界データ』(総務省統計局)を加工して作成

町域内 2件 / 町域から1km圏 9件。

死 千日デパート火災の地 — 町域内(代表点から北西へ 90m)

死の痕跡 / 根拠: 資料確認済み / 位置精度: 地点特定

1972年5月、死者118名を出した日本のビル火災史上最悪級の惨事が起きた場所。跡地には現在商業施設が建つ。犠牲者への哀悼を前提に、都市防災史の痕跡として記録する。

跡地の現在の住所は、千日前二丁目10番1号。この一区画には、記録をたどれるだけで四代の建物が重なっている。大正3年(1914)の娯楽施設「楽天地」、昭和7年(1932)竣工の大阪歌舞伎座ビル、それを改築した昭和33年(1958)開業の千日デパート、そして解体のあと昭和59年(1984)に開業した現在のビルである。楽天地と大阪歌舞伎座が同じ敷地だったことは大阪歴史博物館の展示解説が、歌舞伎座ビルを改築して千日デパートになったことは判例時報などを典拠にした記述が示している。

火災は1972年5月13日、閉店後の22時27分ごろに3階から出た。2階から4階までの8,763平方メートルに燃え広がり、翌朝7時41分に鎮火している。亡くなった方は118人、負傷した方は81人。ビルは昭和56年(1981)4月に解体が完了した。

千日デパート火災の跡地に、1984年に開業したビル 千日前二丁目10番1号。手前のアーチには「千日前」の文字がある

千日デパート火災の地のページ

噂 千日前の土地の記憶(来歴の紹介と記録) — 町域内(代表点から南東へ 130m)

噂の痕跡 / 根拠: 伝承 / 位置精度: 町域

刑場・墓所・大火という履歴を持つ千日前。地元の千日前商店街は公式サイトでこの来歴を紹介しており、現代の出版記事もこの土地の歴史を取り上げている。明治の払い下げでは跡地の買い手がつきにくかったという記録が辞典類に残る。対象は史実そのもの(別項「千日前 刑場・墓所跡」)ではなく、その来歴が現在どう紹介・記録されているかである。

明治の払い下げのとき、刑場・墓所の跡地は買い手がつきにくく、灰の処理に補助が出た、という記述が辞典類に残る。当サイトはその原典に到達していない。

一方で、跡地がどう開かれたかについては、大阪市中央区の旧町名の解説に短い記述がある。河原町一〜二丁目の項で、「刑場跡を奥田弁次郎・ふみ夫妻が開発して見世物興業を中心とした大歓楽場に仕上げた」と書く。買い手がつかなかった土地を、名前の分かる二人が興行街に変えた。

そして明治40年、大阪で最初の活動写真の常設館が千日前にできる。大阪歴史博物館の解説によれば「電気館」という館で、明治45年の南の大火ではその一帯が焼けた。

千日前の土地の記憶(来歴の紹介と記録)のページ

死 千日前 刑場・墓所跡 — 東へ 200m(町域からは約60m)

死の痕跡 / 根拠: 資料確認済み / 位置精度: 町域

江戸時代、千日前一帯には刑場と墓所があった(千日墓所)。火葬場も併設されていたと伝わる(併設は伝承にとどまる)。明治期に阿倍野へ移転し、跡地は興行街→現在の繁華街へと変貌した。

この地点は、町の代表点から東へ約200m、町域の境からは東へ約60mのところにある。つまり刑場の記録は、この町の境のすぐ外側に置かれている。

墓所のほうは違う。『日本歴史地名大系』の「千日墓所跡」の項は、現在地名を「南区千日前二丁目」(同書が書かれた当時の区名)と書く。正式には難波村領道頓堀墓所といい、大坂三郷で最大、大坂七墓の一つ。成立は元和6年(1620)で、三郷の拡張のとき市中にあった墓所が移転したと伝える、とある。

慶安4年(1651)の記録では、墓所の広さは南北41間・東西40間。1間を約1.8mとすると、およそ75m×73mになる。いまの町域は約4万5千平方メートルだから、その1割ほどにあたる広さだ。ただし墓所が町域のどこにあったのかは、この記述からは分からない。

大坂にはほかにも刑場があった。位置の比べ方は記事大坂の四刑場はどこにあった?千日・鳶田・野江・三軒家を地図で比べるに、なぜ街道沿いに置かれたのかは記事処刑場跡地とは — なぜ街道沿いに置かれたのかにまとめた。

アーケードの続く現在の千日前商店街 千日前商店街。通行人はぼかしている

千日前 刑場・墓所跡のページ

地 「難波」地名の由来(難波津・波速説・魚庭説の諸説併存) — 西へ 280m(町域からは約110m)

地の痕跡 / 根拠: 資料確認済み / 位置精度: 推定

大阪の古称「なにわ」は難波・浪速・浪華などと表記され、語源には『日本書紀』由来の波速(浪の速い海)説や魚庭(魚の豊かな海)説など諸説あるとされる。現在の繁華街「なんば」はこの読みが音変化したものとされる。

「難波」地名の由来(難波津・波速説・魚庭説の諸説併存)のページ

地 道頓堀川(1615年完成の運河) — 北西へ 370m(町域からは約210m)

地の痕跡 / 根拠: 資料確認済み / 位置精度: 地点特定

道頓(長く安井道頓と伝えられてきたが、学術的には成安道頓とする説が有力)らが私財を投じて開削したと伝わる運河で、1612年着工・1615年完成。埋め立てを免れて今も都心を流れる「生きている堀川」。名は開削者に由来する。今は東横堀川と木津川を結ぶ、延長約2.7kmの一級河川である。

道頓堀川(1615年完成の運河)のページ

水 難波新川(難波入堀川)跡 — 南西へ 430m(町域からは約300m)

水の痕跡 / 根拠: 資料確認済み / 位置精度: 地点特定

江戸時代、幕府直轄の米蔵「難波御蔵」への水運を良くするために開削されたと伝わる堀川の跡。道頓堀川から分岐し、貧民救済のための土砂運搬工事だったことから「極貧堀」とも呼ばれたとされる。戦後に埋め立てられ、跡地は現在の阪神高速1号環状線などにあたるとされる。

難波新川(難波入堀川)跡のページ

水 いたち川跡(くり舟発掘の碑・浪速区) — 南西へ 740m(町域からは約590m)

水の痕跡 / 根拠: 資料確認済み / 位置精度: 推定

浪速区を東西に流れ、昭和29年までに全域が埋め立てられた川の跡。四天王寺建立の木材を運ぶため開かれたと伝わる。明治11年の工事中に一千年以上前と推定されるくり舟が出土し、難波中に発掘の碑が残る。旧町名「船出町」の由来にもなったとされる。汚濁のため、1940年には大半が埋め立てられていた。

いたち川跡(くり舟発掘の碑・浪速区)のページ

戦 第1回大阪大空襲の中心焼失域(ミナミ〜市街西部) — 南西へ 770m(町域からは約620m)

戦の痕跡 / 根拠: 資料確認済み / 位置精度: 推定

1945年3月13日深夜〜14日の第1回大阪大空襲では、難波・西区など市街中心部が焼夷弾攻撃で広範囲に焼失した。現在の繁華街の多くは戦後の再建。

第1回大阪大空襲の中心焼失域(ミナミ〜市街西部)のページ

水 堀江川跡(北堀江・南堀江間) — 北西へ 1,080m(町域からは約890m)

水の痕跡 / 根拠: 資料候補 / 位置精度: 町域

元禄期に河村瑞賢による堀江新地開発で開削されたと伝わる堀川の跡。西横堀川から分かれて木津川へ注いでいたとされ、埋立後は「北堀江」「南堀江」という町名の南北の境界として名残をとどめているとされる。

堀江川跡(北堀江・南堀江間)のページ

噂 天王寺七坂・口縄坂の伝承 — 南東へ 1,060m(町域からは約890m)

噂の痕跡 / 根拠: 資料確認済み / 位置精度: 地点特定

上町台地西縁に並ぶ「天王寺七坂」の一つ口縄坂は、坂の起伏が蛇(口縄)に似ることが名の由来と伝わる(大坂城築城の際の測量起点(縄打ち口)であったからとする説もある)。七坂一帯は寺町で、坂ごとに伝承が残る。区の公式サイトによれば、坂の下から眺めた道の起伏が蛇に見えるという。

天王寺七坂・口縄坂の伝承のページ

水 長堀川跡(長堀通) — 北西へ 1,050m(町域からは約910m)

水の痕跡 / 根拠: 資料確認済み / 位置精度: 地点特定

江戸初期に開削され、昭和期に埋め立てられた堀川の跡。現在の長堀通の下にあたり、「心斎橋」「長堀橋」などの橋名が地名として残る。

長堀川跡(長堀通)のページ

町の北を流れる道頓堀川は、1612年着工・1615年完成の運河である。墓所の成立が元和6年(1620)だから、堀ができてから数年のうちに、その南に墓所が置かれたことになる。千日前商店街の公式サイトも、道頓堀と名付けられた堀が完成する頃、道頓堀から南に刑場や火葬場、墓地、灰山が置かれた、という順序で書いている。

千日墓所は「大坂七墓」の一つに数えられる。七つの墓所を盆の夜に一晩で巡る風習と、うめきたの発掘で出た人骨のことは、記事うめきたは、墓所だった — 大坂七墓と、盆の夜に一晩で巡る風習にまとめた。

町名の変遷も、この町がどこから来たかを示している。昭和57年2月1日の住居表示で、旧・河原町一〜二丁目、旧・難波新地一〜六番町、旧・南阪町の各一部が千日前一〜二丁目になった。そのうち河原町も難波新地も南阪町も、もとをたどれば西成郡難波村である。

※方位と距離は事実の配置であり、吉凶を意味しない。

時のながれ

千日前二丁目 — 時のながれ元和6年(1620)千日墓所ができたと伝わる。大坂三郷で最大の墓所寛永14年(1637)法善寺が難波村へ移る慶安4年(1651)墓所の広さは南北41間・東西40間と記録される延宝ごろ(1673-81)法善寺が「千日寺」と呼ばれはじめる正徳年間(1711-16)「千日御仕置場」の語が文書に出てくる明治3年(1870)ごろ刑場が廃止される明治7年(1874)墓地が阿倍野などへ移る明治45年(1912)1月16日、南の大火。焼失およそ5千戸大正3年(1914)娯楽施設「楽天地」開業昭和7年(1932)同じ敷地に大阪歌舞伎座昭和20年(1945)第1回大阪大空襲。ミナミの市街が広く焼ける昭和33年(1958)改築して千日デパート開業昭和47年(1972)5月13日、火災。118人が亡くなる昭和57年(1982)2月1日、町名「千日前二丁目」が生まれる昭和59年(1984)同じ敷地に新しいビル年代は本文に挙げた出典どおり。「ごろ」は資料が幅を持たせているもの

時期出来事
慶長17年(1612)〜元和元年(1615)町の北を流れる道頓堀川が開削される(大阪市)
元和6年(1620)難波村領道頓堀墓所(通称・千日墓所)が成立したと伝える。大坂三郷最大の墓所で、大坂七墓の一つ(日本歴史地名大系)
寛永14年(1637)法善寺が難波村へ移る。寺歴には二つの伝えがあり、『日本歴史地名大系』は「千日墓所一件」の記述のほうが信頼できるとする
慶安4年(1651)墓所の広さは南北41間・東西40間(「千日墓所一件」成舞家文書)
延宝(1673-81)ごろ法善寺が「千日寺」と称されるようになり、「千日前」の呼称もこの頃生まれたと推定される(日本歴史地名大系)
正徳年間(1711-16)「千日墓道」「千日御仕置場」の語が文書に見える(同上)
享保20年(1735)/文化9年(1812)埋葬人は享保20年が8,728、文化9年が7,639(同上。数え方の説明は公開されている抜粋に無い)
寛政9年(1797)道頓堀吉左衛門町の式目定に「戎橋通り千日通り両角屋敷」とみえる(同上)
明治3年(1870)ごろ刑場が廃止される(国立国会図書館レファレンス協同データベース)
明治7年(1874)墓地が阿倍野方面へ移る(同上)。大阪市中央区の解説は、明治7年以前のこの一帯を千日墓地とし、北側に刑場、南側に火葬場があったと書く
明治期刑場跡を奥田弁次郎・ふみ夫妻が開発し、見世物興業を中心とした歓楽街になる(大阪市中央区)
明治40年(1907)大阪で最初の活動写真の常設館「電気館」が千日前にできる(大阪歴史博物館)
明治45年(1912)1月16日、南の大火。火元は難波新地(現・中央区難波四丁目付近)で、焼失戸数は約5千戸、死者は消防手2名を含む4名。焼け跡に千日前通が開通する(大阪歴史博物館)
大正3年(1914)7月ごろ、娯楽施設「楽天地」が開業(大阪歴史博物館)
昭和7年(1932)9月、同じ敷地に大阪歌舞伎座ビルが竣工(判例時報ほかを典拠とする記述)
昭和20年(1945)3月13日深夜からの第1回大阪大空襲で、難波・南区(現・中央区)など市街中心部が広く焼けた。この空襲では3,987名の死者と678名の行方不明者が出た(新修大阪市史ほかを典拠とする記述)。いまの千日前二丁目にあたる区域がどこまで焼けたかは、当サイトはまだ確かめられていない
昭和33年(1958)12月1日、歌舞伎座ビルを改築した千日デパートが開業(判例時報ほかを典拠とする記述)
昭和47年(1972)5月13日22時27分ごろ出火。8,763平方メートルが焼け、118人が亡くなり81人が負傷した(大阪市消防局・判例時報を典拠とする記述/関西テレビ)
昭和56年(1981)4月、ビルの解体工事が完了する(同上)
昭和57年(1982)2月1日の住居表示で、旧・河原町一〜二丁目、旧・難波新地一〜六番町、旧・南阪町の各一部から町名「千日前二丁目」が生まれる(大阪市中央区)
昭和59年(1984)1月13日、同じ敷地に新しいビルが開業(判例時報ほかを典拠とする記述)
平成元年(1989)2月13日、南区が東区と合区して中央区になる(大阪市中央区)

❓まだ分かっていないこと

この町は、資料の量のわりに分からないことが多い。不明点はそのままにしておく。

  1. 墓所と刑場が、町域のどこにどれだけ広がっていたのか。慶安4年(1651)の広さは記録にあるが、位置を示す図に当サイトはまだ到達していない。地図に範囲を描けないのはこのためだ。
  2. 火葬場のこと。大阪市中央区の解説は「北側に刑場が、南側に火葬場があった」と書き、『日本歴史地名大系』の千日墓所跡の項にも荼毘所という語が出てくる。当サイトのスポットの記述は「併設は伝承にとどまる」という慎重な書き方をしており、資料のほうが踏み込んでいる。原典を確かめるまで、当サイトは強い言い方に変えない。
  3. 埋葬人の数え方。享保20年(1735)8,728、文化9年(1812)7,639という数字が『日本歴史地名大系』にあるが、公開されている抜粋には、一年あたりなのか、ある時点までの累計なのかの説明がない。
  4. 明治の払い下げで灰の処理に補助が出たという記述の原典。辞典類を典拠とする記述で見たにとどまり、そこから先へ進めていない。
  5. 町名「千日前一・二丁目」が生まれた日付の一次資料。大阪市中央区は住居表示の実施日として昭和54年2月1日・昭和57年2月1日・昭和58年2月1日・平成元年2月13日の四つを挙げており、旧町名の解説も昭和57年2月1日と書く。ただし告示そのものには当たっていない。
  6. 竹林寺がいつ、どこにあって、いつ無くなったのか。碑が千日前通に立っていることは大阪市中央区の解説で分かるが、その碑がいまどの町丁にあるのかも確かめていない。
  7. 南の大火で、いまの千日前二丁目にあたる区域がどこまで焼けたのか。焼失戸数の全体は分かるが、町丁単位の記録は見ていない。

📷 この町を歩く人へ — 街で見つけた「土地の記憶」を募集している。説明板・石碑・旧町名の表示・暗渠の跡。誰でも入れる場所にある、文字の書いてある、公のもの。それが調査の入口になる。
ひとつだけ確認。その場所に立つために、柵を乗り越えたり、立入禁止の札を無視したり、閉まっている門をくぐったりしていないこと。それだけ守ってもらえれば十分だ。
お願い: ①ご自身で撮影した写真 ②場所 ③撮影日 を添えてほしい。この土地の記憶を投稿する

出典

最終確認日: 2026-09-11 / この履歴書は資料が増えるたびに書き換わる

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