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大阪の歴史痕跡

大阪城公園に残る戦争の痕跡 — 76年間、ここは陸軍の土地だった

2026-07-27 | 執筆・編集:痕跡マップ編集部

大阪城公園は、明治2年(1869年)から昭和20年(1945年)までの76年間、陸軍の土地でした。

順序を間違えやすいところです。城があったから軍が来たのではありません。鳥羽・伏見の戦いで城内から火が出て多くの建物が焼け、その空いた城跡が軍を置くのにちょうどよかった。大阪市の『特別史跡大坂城跡保存活用計画』を読むと、そう書かれています。

だから園内には、天守閣とは関係のない傷や建物が残っています。日曜に散歩していても、たいてい素通りする場所です。

誰が、なぜここを選んだのか

明治2年11月18日、兵部省が上申を出しています。三宅宏司氏の論文に引かれた原文はこうです。

大阪ハ所謂海陸四達ノ要地ニシテ皇国ノ中央ニ位ス四方ノ変ニ応シ易シ

火薬製造所を除き、すべてを大阪城内外に造営すべし——という内容でした。この13日前に、大村益次郎が大阪で亡くなっています。襲われた傷がもとでした。

翌明治3年、城中三の丸御蔵曲輪跡が造兵司の地と定められます。これが大阪砲兵工廠の始まりです。名前はその後、大阪造兵司、大砲製造所、砲兵支廠、大阪砲兵工廠(明治12年)、陸軍造兵廠大阪工廠(大正12年)、そして大阪陸軍造兵廠(昭和15年)と変わりました。資料によって呼び方が違うのは、このためです。

工廠は、自分で全部作る工場ではなかった

敗戦直前の規模を、大阪市中央区はこう記しています。土地590万平米、建物70万平米超、最大工員数6万人超。

昭和20年8月15日現在の人員は66,582人。内訳を大阪府の『産開研論集』から拾うと、一般工員(男子)31,028人、一般工員(女子)9,728人、女子挺身隊3,003人、学徒12,306人、一般徴用工員6,558人、半島徴用工員1,319人が含まれます。

意外だったのは、生産の内訳です。昭和17〜20年度の兵器類生産額は、火砲でも官30%対民70%。全体では官23%対民77%でした。

つまりここは、自分ですべてを作る工場ではありません。設計と管理と組み立ての中心であって、実際の製造の大半は大阪じゅうの民間工場に出ていました。戦争の痕跡がこの公園の中だけに収まっていない理由が、この数字にあります。

なお「東洋一」という呼び方は、大阪市中央区も「東洋一と言われた」と伝聞のかたちで書いています。面積なのか生産量なのか従業員数なのか、根拠は確認できませんでした。

8月14日、狙われたのは工廠ひとつだった

終戦前日の空襲で、この工廠は破壊されます。程度は資料で幅があり、大阪市中央区は「施設の80%以上」、国立国会図書館は「設備の90%」としています。

壊れたのは工廠だけではありませんでした。

城側では、京橋口多聞櫓・二番櫓・三番櫓・伏見櫓・坤櫓の5棟が焼失しています。大阪市の計画書と大阪城天守閣の公式サイトが、同じ5棟を挙げています。

そして駅です。京橋駅の慰霊碑に添えられた説明板は、こう記しています。

流れ弾の一トン爆弾が四発、京橋駅に落ちた。うち一発が多数の乗客が避難していた片町線ホームに高架上の城東線(現、環状線)を、突き抜けて落ちた

標的は工廠ひとつでした。壊れたのは、その外側です。京橋駅で何が起きたのかは京橋駅空襲と慰霊碑に、その日の大阪全体については大阪空襲はどこが焼けたのかにまとめています。

直された傷と、直されなかった傷が、同じ石垣に並んでいる

石垣の被害は70ヶ所に及びました。補修は昭和29年から、国庫補助を受けて順次行われています。

ここが、この公園を歩くうえで一番おもしろい点だと思っています。70ヶ所すべてが直されたわけではない。天守台の周囲を一周すると、石板で補修された箇所と、傾いたまま残っている箇所が並んでいます。

山里曲輪の石垣にも痕が残っています。ピースおおさか自身が「機銃掃射によるものと思われる」という推定のかたちで案内しているので、ここでも断定はしません。

もうひとつ、桜門の枡形に石垣のゆがみがあります。昭和20年に陸軍が本丸内に大規模な防空壕を掘っており、幹線は本丸内の南北園路の真下、支線がこの枡形の石垣に影響したと、渡辺武氏の研究をもとに大阪市の計画書が説明しています。地下壕そのものは入れません。地上から見えるのは、このゆがみだけです。

司令部だった建物が、いま入館無料になっている

天守閣のすぐ南に、城とは明らかに様式の違う建物が建っています。旧陸軍第四師団司令部庁舎です。1931年(昭和6年)竣工の純軍事施設で、1940年から45年は中部軍管区司令部庁舎でした。

戦後の使われ方が、そのまま年表になります。

時期用途
昭和20年9月進駐軍が接収、市民の立ち入り禁止
昭和23年大阪市警視庁舎
昭和30年大阪府警察本部庁舎
昭和35年大阪市立博物館(平成13年閉館)
平成29年商業施設ミライザ大阪城

建物への入館は無料です。別料金がかかるのは中の個別施設だけ。軍の司令部だった場所を、いまは何も知らずに通り抜けられます。

大阪城そのものも同じ時期に接収されています。昭和20年9月29日に米軍が接収し、昭和23年8月25日に接収解除、昭和24年7月20日に公開が再開されました。その間の昭和22年には紀州御殿が焼失しています。

歩くこと自体は、公式が勧めている

この散歩は自己流ではありません。大阪府と大阪市が出捐して設立した公益財団法人が運営するピースおおさかが、公式サイトでこう案内しています。

大阪城公園一帯には戦争遺跡が点在しているため、「戦跡めぐり」を行うことが可能です

モデルコースはA(全16箇所・天満橋駅から森ノ宮駅)、B(全10箇所・谷町四丁目駅から森ノ宮駅)、Cの3系統。ミュージアムショップでは、フィールドワークマップ「大阪城周辺に残る戦争の傷あと」を1部50円で販売しています。

痕跡マップでは、そのうち自由に見られる場所を中心に順路を組みました。

1. 大手門(自由) 2. 桜門枡形の石垣のゆがみ(自由) 3. 旧第四師団司令部庁舎=ミライザ大阪城(外観は常時、館内は各店舗の営業時間内) 4. 天守台の石垣(自由・本丸広場は無料で、天守閣に入館する必要はありません) 5. 山里曲輪の石垣の痕(自由) 6. 旧大阪砲兵工廠 化学分析場立入不可・柵の外からの遠望のみ) 7. 青屋門(自由) 8. 荷揚げ門(第二寝屋川の対岸から見るだけ) 9. 砲兵工廠跡碑(自由) 10. ピースおおさかと中庭「刻の庭」(有料・9:30〜17:00、入館16:30まで、月曜休館。大人250円・小中学生無料) 11. 鵲森宮(森之宮神社)(参拝の場です。まずお参りを)

6番と8番は近づけません。化学分析場は2025年時点で崩落の危険があるとして立ち入りが禁じられており、管理は近畿財務局です。荷揚げ門も、ピースおおさかの公式案内が「川の対岸から見る」としています。柵の外から見る、それだけです。

旧真田山陸軍墓地は、この順路とは別に時間をとって訪ねる場所だと考えています。墓碑は和泉砂岩製で風化が進んでいるので、触らない・寄りかからない・物を置かない。案内は維持会が随時受け付けています(06-6211-5971/平日10時〜17時)。開門時間は公式に記載がないので、いつでも入れるとは書けません。

数字が並んでいることについて

ピースおおさかの「大阪空襲死没者名簿」は、2026年3月現在で9,171人分です。

一方、1945年10月調べの大阪府の空襲による死者は12,620人、行方不明2,173人でした。

名簿はいまも追加登載と訂正を受け付けています。

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参考・出典

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