京橋駅空襲被爆地(慰霊碑)|何があった場所か
1945年8月14日、大阪陸軍造兵廠を狙った1トン爆弾が京橋駅に落ち、避難していた乗客が犠牲になった。碑に刻まれているのは「南無阿彌陀佛」の六文字だけで、犠牲者数は隣の説明板に記されている。JR京橋駅南口に慰霊碑が建ち、毎年8月14日に慰霊祭が営まれる。
時のながれ
- 1945 — 8月14日(終戦前日)、大阪陸軍造兵廠を狙った爆弾が京橋駅にも落ちた。高架の城東線を突き抜けた1発が、多くの人が避難していた地平の片町線ホームに落ちたと大阪市都島区の資料は記す。発数は説明板が「四発」、慰霊祭を営む世話人会の文は「数個」としている。
- 1947 — 惨状を目撃した森本栄一郎氏(説明板は「大東市の」と記す。大東市の市制施行は1956年)が自費で慰霊碑を建立。総務省は昭和22年8月14日とする。
- 1955 — 妙見閣寺が世話をする形で慰霊祭が始まる。以後この年を第1回として数え、2026年で第72回。
- 1983 — 2月、納経塔が有志一同により建立。犠牲者数を記した説明板もこのとき国鉄京橋駅長名で掲げられた。
- 1984 — 城東ライオンズクラブが釈迦牟尼仏尊像と平和祈念像を建立。
- 現代 — 毎年8月14日午前11時から慰霊祭が営まれている(主催=妙見閣寺・京橋駅慰霊祭世話人会)。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 大阪市都島区は「京橋駅爆撃被災者慰霊碑」を片町二丁目付近、死者236人と案内している。城東区は新喜多一丁目の「空襲による遭難者供養の碑」について、犠牲者200人以上と案内している。
- 現地の説明板は「判明している被爆犠牲者は二百十名であるが、他に無縁仏となったみ霊は数え切れなく、五百名とも、六百名とも言われている」と記す。
そのため、このページではこうしています
- 各資料の数字は数え方が異なるため、合算できない。
- 大阪市の統計にある8月14日の死者359人は大阪全体の数字であり、京橋駅単独の数ではない。
- 碑の所在の表記は「JR京橋駅南口付近」(代表地点)による。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 都島区と城東区の案内は名称・所在地・人数の示し方が異なり、同じ碑を指すのか別の碑なのかは現地で確認できていない。数値や住所は一つに統合できない。
参考・出典
- 総務省|一般戦災死没者の追悼|大阪大空襲 京橋駅爆撃被災者慰霊碑 他
総務省 - 終戦前日の空襲犠牲者悼む 大阪・京橋駅で慰霊祭
日本経済新聞 - 京橋駅爆撃慰霊碑
人権教育推進サイト(郷土史・平和教育資料) - 大阪市都島区:京橋駅爆撃被災者慰霊碑
大阪市都島区(公式) - 大阪市城東区:空襲による遭難者供養の碑
大阪市城東区(公式) - 大阪空襲の概要(空襲一覧)
大阪市(公式)
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
この痕跡を掘り下げた記事
近くの痕跡
- 大阪砲兵工廠跡(大阪城公園東部〜OBP)(戦の痕跡・約670m)
- 蒲生(がもう)地名(地の痕跡・約874m)
- 旧大阪砲兵工廠 化学分析場(現存する煉瓦遺構)(戦の痕跡・約1.0km)
- 森の宮遺跡・貝塚(旧河内湾/河内湖岸線の物証)(水の痕跡・約1.2km)