大阪砲兵工廠跡(大阪城公園東部〜OBP)|何があった場所か

1870年(明治3年)に大阪城三ノ丸米蔵跡に造兵司が置かれ、1879年(明治12年)に大阪砲兵工廠と称されるようになった。「東洋一」と言われた旧陸軍の兵器工場跡。1945年8月14日(終戦前日)の大空襲で施設の大半が破壊された。跡地は大阪城公園東部・大阪ビジネスパーク・JR森之宮電車区・Osaka Metro森之宮検車場・UR森之宮団地などになっている。

近くの痕跡
- 森の宮遺跡・貝塚(旧河内湾/河内湖岸線の物証)(水の痕跡・約572m)
- 京橋駅空襲被爆地(慰霊碑)(戦の痕跡・約670m)
- 旧大阪砲兵工廠 化学分析場(現存する煉瓦遺構)(戦の痕跡・約770m)
- 城東練兵場跡(森之宮)(戦の痕跡・約1.1km)
時のながれ
- 明治 — 1870年(明治3年)大阪城三ノ丸米蔵跡に造兵司が置かれ、名称の変遷を経て1879年(明治12年)に大阪砲兵工廠と称されるようになる、以後拡張を重ね「東洋一」と言われた規模の兵器工場となる(大阪市中央区の資料が「東洋一と言われた」と伝聞形で記す。国立国会図書館コラムは「軍の造兵廠の中でも最大規模」と記す)。
- 大正〜昭和 — 1923年(大正12年)の陸軍造兵廠令で「陸軍造兵廠大阪工廠」へ改称。昭和15〜17年(1940〜42年)の組織再編期の名称は「大阪陸軍造兵廠」であった(国立国会図書館コラム)。資料によって「大阪砲兵工廠」「大阪陸軍造兵廠」と呼称が異なるのはこのため。
- 1945 — 8月14日(終戦前日)、B-29の大規模空襲により施設の大半が失われた。大阪市中央区は「施設の80%以上」、国立国会図書館は「設備の90%」と記すが、数えている対象が異なるため同じ割合としては比較できない。
- 現代 — 跡地は大阪城公園東部、大阪ビジネスパーク(OBP)、JR森之宮電車区、大阪メトロ森之宮検車場、UR森之宮団地等になっている。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 大阪市中央区・城東区の公式ページと、国立国会図書館のコラムで確認した。名称は1923年(大正12年)に「陸軍造兵廠大阪工廠」となり、昭和15〜17年の組織再編期には「大阪陸軍造兵廠」と称しており、資料によって呼称が異なるのは改称によるものである。
そのため、このページではこうしています
- 空襲による被害について、大阪市中央区は「施設の80%以上」、国立国会図書館は「設備の90%」と記す。数えている対象が異なるため、同じ割合として比較することはできない。
- 「東洋一」は、大阪市中央区の資料でも伝聞の形で残る表現である。
- ピンは広大な敷地の代表点である。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 敷地の広さについて、大阪市は「土地590万平方メートル」と記す。別に118万平方メートルとする記述もあるが、何の範囲を指す数字か特定できない。
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
この痕跡を掘り下げた記事
参考・出典
3件出典に基づいて掲載している
訂正履歴
公開後に内容を改めた箇所を、日付とともに記録している。
- :時のながれの3項目と編集部の調査メモの1文を、国立国会図書館のコラムと大阪市中央区の資料に合わせて改めた。主な変更は、始まりを1879年から1870年(明治3年)の造兵司の設置に改めたこと、「東洋一」を大阪市中央区の資料が伝聞の形で記す言葉としたこと、改称の年を1940年から1923年(大正12年)の「陸軍造兵廠大阪工廠」への改称に改めたことだ。参考・出典のコラムの表題も、移行後の展示会の名に合わせた。
- :説明文の冒頭に、時のながれにある、造兵司が置かれた年(1870年)と大阪砲兵工廠と称されるようになった年(1879年)を足した。
この場所について
この場所について、いま知っていることを教えてください。