大阪砲兵工廠跡(大阪城公園東部〜OBP)|何があった場所か
「東洋一」と言われた旧陸軍の兵器工場跡。1945年8月14日(終戦前日)の大空襲で施設の大半が破壊された。跡地は大阪城公園東部・大阪ビジネスパーク・JR森之宮電車区・Osaka Metro森之宮検車場・UR森之宮団地などになっている。
時のながれ
- 明治 — 1879年(明治12年)大阪砲兵工廠として発足、以後拡張を重ね「東洋一」と言われる規模の兵器工場となる(国立国会図書館コラム。大阪市中央区も「東洋一と言われた」と伝聞形で記す)。
- 昭和 — 1940年(昭和15年)に「大阪陸軍造兵廠」へ改称。資料によって「大阪砲兵工廠」「大阪陸軍造兵廠」と呼称が異なるのはこのため。
- 1945 — 8月14日(終戦前日)、B-29の大規模空襲により施設の大半が失われた。大阪市中央区は「施設の80%以上」、国立国会図書館は「設備の90%」と記すが、数えている対象が異なるため同じ割合としては比較できない。
- 現代 — 跡地は大阪城公園東部、大阪ビジネスパーク(OBP)、JR森之宮電車区、大阪メトロ森之宮検車場、UR森之宮団地等になっている。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 大阪市中央区・城東区の公式ページと、国立国会図書館のコラムで確認した。名称は1940年から正式には「大阪陸軍造兵廠」であり、資料によって呼称が異なるのは改称によるものである。
そのため、このページではこうしています
- 空襲による被害について、大阪市中央区は「施設の80%以上」、国立国会図書館は「設備の90%」と記す。数えている対象が異なるため、同じ割合として比較することはできない。
- 「東洋一」は、大阪市中央区の資料でも伝聞の形で残る表現である。
- ピンは広大な敷地の代表点である。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 敷地の広さについて、大阪市は「土地590万平方メートル」と記す。別に118万平方メートルとする記述もあるが、何の範囲を指す数字か特定できない。
参考・出典
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
この痕跡を掘り下げた記事
近くの痕跡
- 森の宮遺跡・貝塚(旧河内湾/河内湖岸線の物証)(水の痕跡・約572m)
- 京橋駅空襲被爆地(慰霊碑)(戦の痕跡・約670m)
- 旧大阪砲兵工廠 化学分析場(現存する煉瓦遺構)(戦の痕跡・約770m)
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