歴史の痕跡
なぜ古墳が「浦島太郎の墓」と呼ばれたのか — 帝塚山古墳と、住吉に残る海の記憶
大阪市住吉区。高級住宅地として知られる帝塚山の一角に、四世紀末から五世紀初めに築かれたとされる前方後円墳が残っている。国の史跡で、指定は昭和38年(1963)10月19日。
現地の説明板を読んでいて、目が止まった一文があった。
被葬者は不明ですが、住吉に居宅があった大伴金村の墳墓とする説があり、他にも鷲住王(摂津名所図会)、地元では浦島太郎の墓とする伝承もあったようです。
浦島太郎の墓。

亀を助けて竜宮城へ行き、玉手箱を開けて老人になる、あの浦島太郎である。昔話の主人公の墓が、なぜ大阪の住宅街の古墳なのか。荒唐無稽に聞こえる。
だが調べてみると、この言い伝えは思いつきで生まれたものではなかった。
被葬者の候補は、三人とも「海」につながる
説明板が挙げる三つの説を順に見ていく。
大伴金村は、六世紀前半に活躍した古代の豪族である。住吉に居宅があったと伝わる。ただし古墳の築造推定年代は四世紀末から五世紀初めで、金村の時代とは百年以上ずれる。江戸時代からある説だが、年代が合わない。
鷲住王(わしすみのおおきみ)は、『日本書紀』の履中天皇紀に登場する。力が強く敏捷だという評判を聞いた天皇が召したが、応じなかった人物である。書紀は彼について、恒に住吉の邑に住んでいたと記す。そして讃岐国造と阿波国脚咋別の祖、すなわち海部(あまべ)=海の民の祖とされている。
浦島太郎。これが本題である。
万葉集の浦島の歌は、住吉の岸から始まる
浦島の物語は昔話として知られるが、文献に残る古い形は『万葉集』にある。巻九・一七四〇、高橋虫麻呂の長歌。その歌い出しが、これである。
春の日の 霞める時に 墨吉(すみのえ)の 岸に出でゐて 釣船の とをらふ見れば 古(いにしへ)の 事ぞ思ほゆる 水江の 浦の島子が……
現代語にすれば、こうなる。春の日の霞んだ時に、墨吉の岸に出て立ち、釣船が揺れているのを見ていると、昔のことが思われる——水江の浦島子が、と。
墨吉は、住吉である。
つまり万葉の歌人は、住吉の海岸に立って、浦島の物語を思い出している。歌はそこから、浦島子が海神の娘と出会い、常世へ渡り、帰郷して玉手箱を開け、たちまち老いて死ぬまでを語る。
浦島の物語と住吉の結びつきは、昔話が絵本になるよりはるか以前、万葉の時代からあった。
海だった土地に、正体不明の塚がある
ここまでを並べると、伝承が生まれる条件が揃っていることがわかる。
この一帯は、かつて海だった。住吉大社の西に立つ高燈籠は、海路を照らして灯台の役目を果たしたと現地の刻銘板が記す。住吉公園を東西に貫く道の名は「汐掛道」。同じ公園には万葉集の「すみのえの粉浜のしじみ」を刻んだ歌碑が立つ。しじみが採れたということは、そこが水辺だったということだ。
住吉大社の摂社・大海神社に祀られているのは、豊玉彦命と豊玉姫命——海幸山幸の神話に出てくる、海の宮の王とその娘である。海の彼方に王宮があるという想像力が、この土地には備わっていた。
そこへ、被葬者のわからない古い塚がある。誰の墓かは誰も知らない。
海の記憶を持つ土地に、正体不明の塚。そして万葉の昔から、この岸辺は浦島の物語を思い出す場所だった。「あれは浦島太郎の墓だ」という言い方が生まれるのに、それ以上の材料はいらない。

「あったようです」という書き方
もっとも、この伝承がいつ頃から語られていたのかを示す資料には行き着かなかった。説明板自身が「伝承もあったようです」と過去形で、しかも伝聞の形で書いている。書いた人も、確かな出典を持っていないのだろうと思う。
いま古墳は柵に囲まれ、住吉村常盤会という団体が清掃と管理を続けている。墳丘には登れない。周りは静かな住宅街で、坂を上ってきた住人が自転車を押していく。海はどこにも見えない。
浦島太郎が眠っているかどうかは、わからない。ただ、この土地が海と竜宮の記憶を抱えていたことは、灯籠と地名と歌碑が今も示している。伝承のほうが、事実の輪郭をなぞっていることがある。
場所と資料は帝塚山古墳のページに。同じ日に歩いた住吉行宮跡、住吉高燈籠も近い。
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参考・出典
- 文化遺産データベース
online.bunka.go.jp - 歌詳細 | 万葉百科 奈良県立万葉文化館
manyo-hyakka.pref.nara.jp - 履中天皇 - Wikipedia
ja.wikipedia.org - 現地説明板「史跡 帝塚山古墳」(一般財団法人 住吉村常盤会・平成25年10月)