帝塚山古墳(住宅街に残る前方後円墳)|何があった場所か

高級住宅街として知られる帝塚山の一角に、四世紀末から五世紀初めの築造と推定される前方後円墳が残る。国の史跡。被葬者は不明で、大伴金村の墓とする説、鷲住王とする説(摂津名所図会)のほか、地元では浦島太郎の墓とする伝承もあったと現地の説明板は記す。
時のながれ
- 4世紀末〜5世紀初め(推定) — 全長約120mの前方後円墳として築造されたと推定される(現地説明板)。
- 江戸期 — 『摂津名所図会』は被葬者を鷲住王とする説を伝える。地元には浦島太郎の墓とする伝承もあったと説明板は記す。
- 明治31年(1898)11月 — 陸軍特別大演習の際、明治天皇がこの古墳から統監したとされ、のちに墳丘上へ天皇駐蹕碑が建てられた。
- 昭和38年(1963)10月19日 — 国の史跡に指定される。
- 現在 — 住吉村常盤会が境界柵を設け、清掃と管理を続けている。市内では珍しいカンサイタンポポの植生も見られると説明板は記す。
現地の写真


編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 現地の説明板(一般財団法人 住吉村常盤会・平成25年10月)を確認した。国の史跡に指定されていること、大阪市内に残る数基の古墳のうち前方後円墳の原型をとどめること、4世紀末から5世紀始めの築営と推定されることが記されている。
- 同じ説明板によれば、当初の規模は全長120m、後円部の直径57m・高さ10m、前方部の幅50m・高さ8mと推定され、内部構造や副葬品は不明。二段築成の墳丘に円筒埴輪列や葺石、周濠の跡も確認されている。
- 被葬者は不明で、住吉に居宅があった大伴金村の墳墓とする説、『摂津名所図会』の鷲住王とする説、地元で浦島太郎の墓とする伝承があったことを説明板は挙げている。
- 明治31年(1898)11月の陸軍特別大演習で明治天皇がこの古墳から統監したことを記念する天皇駐蹕碑が、墳丘上に建つ(大正期に住吉村が建立と説明板は記す)。
そのため、このページではこうしています
- 古墳は住吉村常盤会が所有・管理しており、周囲を柵で囲われている。墳丘内へは立ち入れない。
- 座標は説明板と入口の位置で、写真の位置情報による実測値である。周囲は住宅街のため、見学の際は生活道路であることに配慮すること。
現地確認: 実施済み
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 被葬者を特定する調査結果には到達していない。説明板自身が「被葬者は不明」と明記している。
- 被葬者候補の三説(大伴金村・鷲住王・浦島太郎)のうち、浦島太郎の伝承がいつ頃から語られていたかを示す資料は確認できていない。説明板も「あったようです」と過去形で記す。
- 古墳の規模について、現地説明板は「当初の規模は全長120m」と推定を記し、文化庁の文化遺産データベースは「墳丘の長さは100メートルに近い規模」と記す。前者は築造当初の推定値、後者は現存する墳丘の記述であり、測っている対象が異なる。
参考・出典
- 現地説明板「史跡 帝塚山古墳」
一般財団法人 住吉村常盤会(平成25年10月・現地掲示。2026-08-14 撮影確認)
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