歴史の痕跡
名古屋城の外堀を走った「お堀電車」と、空襲で焼けた天守
お堀電車は、名古屋城の三之丸の外堀の底を1911年から1976年まで走った瀬戸電の外堀線で、瀬戸物を堀川駅まで運んだ。いま堀の中には大津町駅の階段や、本町駅跡付近の煉瓦アーチが残る。同じ城の天守は1945年5月14日の朝、空襲で焼けた。
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名古屋城のいちばん外側の堀、三之丸の外堀の底を、1911年(明治44)から1976年(昭和51)まで電車が走っていた。瀬戸で焼かれた皿や茶わんを堀川の岸まで運んだ瀬戸電の外堀線で、「お堀電車」と呼ばれた。いま堀の中に残るのは、大津橋のたもとの階段と、本町駅跡付近の煉瓦アーチなどだ。
電車が走っていた65年のうちの1945年(昭和20)5月14日の朝、同じ城の天守は空襲で焼けた。堀と天守、二つの記録を並べてみる。
お堀電車はどこを走っていたのか
名古屋市中区の資料によると、電車は現在の県立明和高等学校の北西から城の堀に入り、景雲橋の北、景雲橋小園のあたりにあった終点の堀川駅まで通っていた。堀の中を走った距離は約2キロ。名古屋市の「特別史跡名古屋城跡保存活用計画」(検討の最終回は2018年3月)は、区間を三之丸外堀の南側と東側、土居下駅から堀川駅までと書いている。
開通は二段階だった。中区の資料では、1911年5月に大曽根から土居下まで、同じ年の9月に土居下から御園駅(堀川駅)まで延びている。
堀の中は狭い。堀の角は「サンチャンカーブ」と呼ばれる急な曲がりで、電車は時速20キロほどで曲がったと中区の紙芝居は書く。本町橋のところは幅が足りず、上りと下りの線路を重ねてすれ違いを避ける仕組みがとられた。
今回あたった名古屋市の資料に名前が挙がる駅は、土居下、大津町、本町、堀川の四つだけだ。ほかの駅の有無は確かめていない。
運んでいたのは瀬戸物だった
始まりは1900年(明治33)にさかのぼる。この年、名古屋から多治見を通る中央線が開通した。中区の資料によると、美濃焼の産地は大量に運べるようになったが、鉄道が来なかった瀬戸の人々は、瀬戸焼が取り残されることを心配した。瀬戸の人々は大曽根の人々とともに動き、1905年(明治38)に瀬戸自動鉄道を開く。のちの瀬戸電だ。
瀬戸物は終点の堀川駅で船に積み替えられ、堀川を下って名古屋港へ運ばれた。中区の資料は、大正末期に名古屋港からの陶磁器製品の輸出額が全国の6割を占め、日本一になったと記す。堀川駅の周りは積み替えで働く人が多く、賑やかだったという。
戦後、荷はトラックで工場から港へ直接運ばれるようになった。乗る人は通勤・通学の客が中心になり、栄まで乗り換えなしで行きたいという声が高まった。1976年、外堀の区間は廃止される。線路は外堀の地下へ潜り、久屋大通公園の地下の栄町駅へ延びた。保存活用計画によると、栄への乗り入れが始まったのは1978年(昭和53)だ。
なぜ城の堀に線路を敷けたのか
城の堀に線路。いま聞くと奇妙だが、当時の堀は陸軍の土地だった。保存活用計画によると、三之丸は1874年(明治7)から陸軍省の所管で、1909年(明治42)に陸軍省が、三之丸の南と東の外堀の堀底に鉄道を敷くための借地を瀬戸電に許した。
その工事で、東門、本町門、御園門の枡形(城門の内側に設けた四角い区画)は形を変えられ、堀を渡る土橋は切り開かれた。三之丸の西側の外堀は、同じ1909年に埋め立てられている。
調べていて意外だったのは、その先の経過だ。1922年(大正11)、借りていた鉄道用地は瀬戸電の持ち物になる。そして1932年(昭和7)12月12日、名古屋城が史跡に指定されたとき、指定地には「瀬戸電気鉄道所有の三之丸外堀部分」が含まれていた(保存活用計画による)。
つまり、1932年から1976年までの44年間、電車は国の史跡の中を走っていたことになる。1952年(昭和27)3月29日に特別史跡になってからも、24年間走り続けた。1939年(昭和14)に瀬戸電は名古屋鉄道と合併し、外堀線は名鉄瀬戸線になっている。
廃線後の話もある。2012年(平成24)、旧瀬戸線の用地のうち必要な部分を除いた土地が、名古屋鉄道から名古屋市と国土交通省に寄贈された。

図は資料の年を並べた模式図で、帯の長さは年数に合わせている。
1945年5月14日の朝、天守が焼けた
名古屋城公式によると、1945年5月14日の朝、空襲警報が鳴り、アメリカ軍のB29が名古屋市北部に焼夷弾を落とした。爆撃は1時間以上続き、名古屋は「火の海」になったと公式は書く。名古屋城では天守と本丸御殿など主要な建物が焼けた。
金鯱を降ろすために組んでいた足場に焼夷弾が引っかかり、そこから上がった火が城全体に回った「とされます」と、公式は伝聞の形で説明している。焼け残ったのは東南隅櫓、西南隅櫓、本丸表二之門、二之丸東二之門、二之丸大手二之門、西北隅櫓の6棟だった。金鯱がどう焼けたかは名古屋城の初代金鯱にまとめている。
焼けなかったものの行き先も、記録に残る。保存活用計画によると、本丸御殿の障壁画は同じ年の3月に御深井丸の乃木倉庫へ、天井板絵はガラス乾板写真や実測図とともに西南隅櫓へ移されていた。障壁画は灰宝神社(現在の愛知県豊田市)に疎開して終戦を迎え、1946年に城へ戻った。名古屋城公式は、障壁画や戦前の写真、実測図が残っていたため、2018年に完成した本丸御殿の忠実な復元ができたと書いている。
燃えたものの、その後も残った木がある。名古屋城のカヤは天守とともに焼けたが、樹勢を取り戻した。本丸御殿の南庭にあったと伝わるツバキ「御殿椿」は、焼け株から新芽を出して生き続け、いまは根株だけが残る。

図は名古屋城公式と保存活用計画の記述を並べたものだ。
天守の跡から、お堀電車の階段が見える大津橋までは、地図の上の直線で約1キロ、方角は南東にあたる(痕跡マップの座標から計算)。1945年5月は、電車が堀を走っていた期間のただ中だ。ただ、その朝に堀の電車がどうしていたかを書いた資料には、今回あたった名古屋市と名古屋城の資料ではたどり着けなかった。
天守は1959年(昭和34)、鉄骨鉄筋コンクリート造で再建された。名古屋城公式は、設備の老朽化と耐震性の確保の問題に対応するため、天守閣を閉館中としている。
いまの外堀で、何を見ればいいか

図は痕跡マップの座標から距離と方角だけを写した模式図で、縮尺は正確ではなく、堀の形と駅の位置は描いていない。
一つ目は大津橋だ。中区の資料によると、大津橋から大津駅の跡がうかがえ、駅へ降りていく手すりと階段が残っている。中区の紙芝居は駅名を「大津町」と書き、同じ中区のもう一つのページは「大津駅跡」と書く。呼び方は資料で分かれる。位置と見方は「お堀電車」の廃線跡にまとめた。

堀の底の駅へ降りる階段を思わせる想像の景色(挿絵)。実際の地形・建物の再現ではない。
二つ目は本町駅の跡。保存活用計画は「本町駅跡付近に煉瓦アーチなどの遺構が残っている」と書く。紙芝居が線路を重ねたと書く本町橋と同じ「本町」の名だが、駅跡と橋がどれだけ離れているかは今回の資料では確かめていない。計画は2018年の取りまとめなので、いまの見え方は現地で確かめたい。
三つ目は終点の跡。中区三の丸一丁目958の景雲橋小園に、中区の歴史銘板「かつてここから見た瀬戸電堀川駅」が立つ。
もう一つは、地図ではなく写真で見る方法だ。中区のページは、国土地理院の空中写真(1961〜1969年)で電車が走った堀と堀川駅を示し、1979〜1983年の写真で地下へ移ったあとの線路を示している。国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」で同じ年代の写真を開けば、堀の底の線路が消える前と後を自分で並べられる。
堀の中は通り抜けられる場所ではなく、特別史跡の指定地でもある。橋の上から見下ろす形で見るのがよい。
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この記事の場所のそばにある痕跡
- 笹島(ささしま)(堀川 から 地の痕跡・約742m)
- 四間道(しけみち・元禄の大火のあと四間に広げたと伝わる道)(堀川 から 地の痕跡・約781m)
- 松重閘門(中川運河と堀川をつないだ閘門)(堀川 から 水の痕跡・約1.5km)
- 精進川の付け替えと新堀川(堀留・記念橋付近)(堀川 から 水の痕跡・約1.8km)
堀川の周りには、名古屋市中区の痕跡が5件ある。
名古屋市中区の痕跡 5件をひらく →この記事について
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