名古屋城の初代金鯱(空襲で溶けた雄と、降ろされていた雌)|何があった場所か
名古屋城の大天守の大棟には、北鯱(雄)と南鯱(雌)の一対の金鯱が据えられていた。名古屋城公式は、1612年(慶長17)に完成した天守が城郭として国宝第一号に指定され、金鯱は江戸、明治、大正、昭和と333年にわたり天守にあり続けたと説明する。1930年(昭和5)には名古屋離宮が名古屋市に下賜され、天守など24棟が城郭としてはじめて旧国宝に指定された。その天守と金鯱が失われたのが1945年(昭和20)5月14日である。同公式は、この日の朝にアメリカ軍のB29が名古屋市北部に焼夷弾を投下し、1時間以上の爆撃で天守や本丸御殿などの主要な建造物が焼失したと述べる。 金鯱がどう焼けたかには、公的な一次記録がある。名古屋城調査研究センター研究紀要第6号(2025年)が引用する金鯱残塊返還関係書類には、当時金鯱は撤去中で、北側の雄は火災のため溶解し、南側の雌は天守閣下まで降ろしてあったため残骸として残った、とある。同紀要は、3月25日に鯱と本丸御殿障壁画の避難工事が決裁され、4月25日から取り下ろしが始まり、南鯱の引き下ろしがほぼ終わった5月14日早朝に屋上へ残された北鯱が全焼したと整理する。名古屋城公式は、避難のために組まれた足場に焼夷弾が引っかかり、そこから上がった火炎が城全体に回ったとされる、と伝聞の形で説明する。 焼け跡から拾い集められた鱗と金属塊の行方も、同じ書類にたどれる。1946年(昭和21)8月3日、占領軍の行政命令により石炭箱13箱分が貴金属として接収された。名古屋市は1959年(昭和34)に接収貴金属等の処理に関する法律に基づき返還を請求し、1967年(昭和42)3月14日に造幣局東京支局で受領している。ただし同紀要は、大蔵省の回答に、同一品位で同一重量のものが国に残らないため評価額に相応する他の合金を引き渡す旨が記されていたことを挙げ、戻ったのは総量およそ6.4キログラムの低品位合金で鯱そのものの残滓ではないと述べる。その金塊から1968年(昭和43)に名古屋市旗の鯱型冠頭が、1969年(昭和44)に純金製の茶釜が作られた。 今も城内に残るのは、接収を免れた鱗である。同紀要は、焦土から集めた鱗の一部に、亜米利加軍ニ接収ノ際隠匿シ置キシモノ昭和二十一年六月、と台帳に記され、表裏ともに激しい被災の痕があると記す。1937年(昭和12)に北鯱の鱗58枚の金板が失われた事件の修理で余った金塊や、1945年4月の取り下ろしの最中に外れた被災の痕のない鱗も伝わる。これらは名古屋城総合事務所が所蔵し、城内の収蔵庫で保管される。焼け落ちた天守の礎石も、再建の際に御深井丸の不明門北側へ移して並べ直され、東南隅櫓など6棟は戦災を免れて現存する。 現在の金鯱は、1959年(昭和34)に再建された鉄骨鉄筋コンクリート造の天守に載る2代目であり、初代とは別のものである。名古屋城公式は、設備の老朽化と耐震性の確保への対応から天守閣を閉館中と告知しており、内部に入ることはできない。金鯱は本丸から天守の外観として仰ぎ見る形になる。本丸と御深井丸は観覧料が必要な区域であり、開園の状況や料金は名古屋城公式の案内による。

時のながれ
- 1612年(慶長17) — 天守が完成する。大棟に北鯱(雄)と南鯱(雌)の一対の金鯱が据えられる
- 1930年(昭和5) — 名古屋離宮が名古屋市に下賜され、天守など24棟が城郭としてはじめて旧国宝に指定される
- 1937年(昭和12)1月 — 北鯱の鱗58枚の金板が失われる。市が金塊を買い戻し、大阪造幣局で金板を新作して修理する
- 1945年(昭和20)3月25日 — 本丸御殿障壁画と天守の鯱の避難準備工事が名古屋市決裁で裁可される
- 1945年(昭和20)4月25日 — 金鯱の取り下ろし作業が始まる
- 1945年(昭和20)5月14日 — 空襲で天守が焼失。屋上に残された北鯱は溶解し、降ろしてあった南鯱は残骸として残る
- 1946年(昭和21)8月3日 — 占領軍の行政命令により、金鯱の残骸13箱が貴金属として接収される
- 1959年(昭和34) — 天守が鉄骨鉄筋コンクリート造で再建され、2代目の金鯱が載る
- 1967年(昭和42)3月14日 — 名古屋市が造幣局東京支局で金塊を受領する。ただし鯱そのものの残滓ではない
- 1968年から1969年(昭和43から44) — 受領した金塊から名古屋市旗の鯱型冠頭と純金製の茶釜が作られる
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 名古屋城公式ウェブサイト(名古屋市観光文化交流局名古屋城総合事務所)は、1945年5月14日朝にB29が名古屋市北部へ焼夷弾を投下し天守や本丸御殿など主要建造物が焼失したこと、金鯱を避難させるために組まれた足場に焼夷弾が引っかかり火炎が城全体に回ったとされること、東南隅櫓、西南隅櫓、本丸表二之門、二之丸東二之門、二之丸大手二之門、西北隅櫓の6棟が戦災を免れたことを記す。
- 名古屋城調査研究センター研究紀要第6号(2025年)の論文は、金鯱残塊返還関係書類の原文として、昭和20年5月14日の時点で金鯱は撤去中であり、雄(北側)は火災のため溶解、雌(南側)は天守閣下まで降ろしてあったため残骸として残ったと記す。
- 同論文は、昭和20年3月25日に本丸御殿障壁画と天守の鯱の避難準備工事が名古屋市決裁で裁可され、4月25日に取り下ろし作業が開始されたこと、南鯱の引き下ろしがほぼ終わった5月14日に屋上に残された北鯱が全焼したことを記す。
- 同論文は、接収と返還の経過を、昭和21年8月3日に占領軍第一軍団司令部行政命令により金鯱残骸13箱(石炭箱)を貴金属として接収、昭和34年10月26日に接収貴金属等の処理に関する法律第5条により返還請求、昭和41年3月14日に大蔵大臣より返還決定通知、昭和42年3月14日に造幣局東京支局で受領、と記す。
- 同論文は、大蔵省の回答の原文として、国が保管する合金の地金には認定と同一品位で同一重量のものがないため評価額に相応する他の合金を引き渡す旨があったと記し、受領したものは金塊(総量6447グラム、うち金3728.4グラム、銀1034.7グラム)と地金(総量217.2グラム)で評価額はおよそ220万円、返還された金塊は鯱の残滓ではないと述べる。
- 同論文は、この金塊から昭和43年に名古屋市旗の鯱型冠頭(24金鍍金)、昭和44年に純金製の茶釜が作られたと記す。
- 同論文は、現存する鱗の遺品が名古屋城総合事務所の所蔵で城内の収蔵庫に保管されること、焦土から集めた5号から11号には、亜米利加軍ニ接収ノ際隠匿シ置キシモノ昭和二十一年六月、と特殊財産台帳に記され表裏ともに激しい被災の痕があること、接収された鱗は二度と名古屋城に戻らなかったことを記す。
- 同論文は、昭和12年1月に国宝調査用の足場を利用して北鯱の鱗58枚の金板が失われ、その修理のために市が金塊を買い戻して大阪造幣局で金板を新作したこと、余った金塊のインゴット(1号)の純度が金54.18パーセントであることを記す。同研究紀要第7号(2026年)の非破壊定量分析の論文も、この事件を1号インゴットの由来として挙げ、実測値(表53.70、裏53.75)と合致すると記す。
- 名古屋城公式(御深井丸)は、天守の再建の際に天守の礎石が不明門北側の現在の場所に移されたと記す。名古屋城公式(天守閣)は、1612年完成の天守が城郭として国宝第一号に指定されたこと、1945年に戦災で焼失し1959年に鉄骨鉄筋コンクリート造で再建されたこと、設備の老朽化や耐震性の確保の問題への対応で現在閉館していることを記す。
- 名古屋市(総務局総務課)のご存じですか八マークのページは、名古屋城二の丸茶席にある金の茶釜を、戦災で焼失した金鯱の残塊で造られたものとして掲げ、八印が陽刻してあると記す。
- 名古屋市の報道発表(2026年8月24日)は、金鯱が昭和5年に天守の一部として当時の国宝に指定され昭和20年の名古屋空襲で大部分が焼失したこと、わずかに伝えられた鱗の実物資料を令和4年度から共同で分析してきたことを記す。
そのため、このページではこうしています
- 座標は、地図データに大天守として登録されている地点を採った。北鯱が屋上で全焼した地点であり、南鯱が降ろされていた天守閣下、鱗が拾い集められた天守の跡地、現在2代目の金鯱を仰ぎ見る地点のいずれもここに集まるためである。
- 行政区は、名古屋城総合事務所の所在地が名古屋市中区本丸1番1号であることと、地図データの行政界の照合から中区とした。
- 天守の礎石と西の丸御蔵城宝館は別の地点にあるが、金鯱と戦災を主題とするため大天守の1点にまとめ、位置の関係を記述で示した。
- 既に掲げた那古野城跡(二之丸)と主題が重ならないよう、築城の前史と城郭全体の沿革には踏み込まず、初代金鯱の焼失と残された金の行方に絞った。
- 1937年の事件は、被災の痕のない鱗が伝わる理由を説明するために一文だけ置いた。
- 金の茶釜の材料は名古屋市の側の資料どうしで食い違うため、返還の事実関係のみを示し、材料が同じものであるかどうかは資料の分かれたままとした。
- 返還の年は、論文の記述よりも、そこに引用された一次文書の日付に従い、受領を1967年3月14日として示した。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 足場に焼夷弾が引っかかったことが天守全焼の直接の起点であったかは、名古屋城公式が伝聞の形で示すのみで、これを裏づける一次記録は見あたらなかった。
- 名古屋市旗の鯱型冠頭と金の茶釜が現在どこでどう管理され、一般に見られるかについての公式の案内は見あたらなかった。名古屋城公式(茶席)は御深井丸の4つの茶席を通常は一般公開していないと記す。
- 1945年5月14日の空襲の死者数は、名古屋城公式および今回当たった名古屋市の各ページに記載が見あたらず、数値は採らなかった。
- 収蔵庫の鱗が常設で公開されているかは確認できなかった。
- 金の茶釜の材料が割れる。名古屋市のご存じですか八マークのページは戦災で焼失した金鯱の残塊で造られたものと記すが、名古屋城調査研究センターの研究紀要第6号の論文は、返還された金塊が大蔵省の回答どおり他の合金であり、市旗の冠頭や茶釜に江戸期の金鯱の金が使われていないのは明らかだと述べる。同じ名古屋市の側の資料どうしで食い違う。
- 返還の年が割れる。研究紀要第6号の論文の本文は昭和41年(1966)に金塊が名古屋市に手渡されたと述べるが、同論文が引用する金鯱残塊返還関係書類の原文は、昭和41年3月14日が返還決定通知、昭和42年3月14日が造幣局東京支局での受領である。
- 江戸期の改鋳の目的が割れる。名古屋城公式(金鯱)は尾張藩の財政難のたびに価値があてにされ明治までに3度改鋳されたと記すが、名古屋市の2026年8月24日の報道発表と研究紀要第6号の論文は、藩財政のためとする説に根拠はなく保存修理の目的であった可能性が高いと述べる。
- 現存する鱗の点数が割れる。研究紀要第6号の論文は隠匿された分を5号から11号までの6点と書くが、番号としては7点分にあたり、同第7号の論文は5号から11号を含む群を11点と数える。
参考・出典
- 現代(名古屋城の歴史)
名古屋市観光文化交流局名古屋城総合事務所 - 金鯱(観覧ガイド)
名古屋市観光文化交流局名古屋城総合事務所 - 天守閣(観覧ガイド)
名古屋市観光文化交流局名古屋城総合事務所 - 御深井丸(建築・構造)
名古屋市観光文化交流局名古屋城総合事務所 - 名古屋城 天守金鯱 過去と今(研究紀要 第6号・2025年)
名古屋城調査研究センター - 名古屋城金鯱関連資料の非破壊定量分析(研究紀要 第7号・2026年)
名古屋城調査研究センター - ご存じですか 八マーク
名古屋市 総務局総務課 - 名古屋城金鯱に関する新しい研究成果の発表について(報道発表 2026年8月24日)
名古屋市
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近くの痕跡
- 那古野城跡(名古屋城より前に、ここにあった城)(戦の痕跡・約296m)
- 四間道(しけみち・元禄の大火のあと四間に広げたと伝わる道)(地の痕跡・約1.3km)
- 堀川(名古屋城築城とともに開削された運河)(水の痕跡・約2.1km)
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