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戦 戦の痕跡 資料確認済み

名古屋城の初代金鯱(空襲で溶けた雄と、降ろされていた雌)|何があった場所か

位置精度: 地点特定 / 最終確認日: 2026-09-08

名古屋城の大天守の大棟には、北鯱(雄)と南鯱(雌)の一対の金鯱が据えられていた。名古屋城公式は、1612年(慶長17)に完成した天守が城郭として国宝第一号に指定され、金鯱は江戸、明治、大正、昭和と333年にわたり天守にあり続けたと説明する。1930年(昭和5)には名古屋離宮が名古屋市に下賜され、天守など24棟が城郭としてはじめて旧国宝に指定された。その天守と金鯱が失われたのが1945年(昭和20)5月14日である。同公式は、この日の朝にアメリカ軍のB29が名古屋市北部に焼夷弾を投下し、1時間以上の爆撃で天守や本丸御殿などの主要な建造物が焼失したと述べる。 金鯱がどう焼けたかには、公的な一次記録がある。名古屋城調査研究センター研究紀要第6号(2025年)が引用する金鯱残塊返還関係書類には、当時金鯱は撤去中で、北側の雄は火災のため溶解し、南側の雌は天守閣下まで降ろしてあったため残骸として残った、とある。同紀要は、3月25日に鯱と本丸御殿障壁画の避難工事が決裁され、4月25日から取り下ろしが始まり、南鯱の引き下ろしがほぼ終わった5月14日早朝に屋上へ残された北鯱が全焼したと整理する。名古屋城公式は、避難のために組まれた足場に焼夷弾が引っかかり、そこから上がった火炎が城全体に回ったとされる、と伝聞の形で説明する。 焼け跡から拾い集められた鱗と金属塊の行方も、同じ書類にたどれる。1946年(昭和21)8月3日、占領軍の行政命令により石炭箱13箱分が貴金属として接収された。名古屋市は1959年(昭和34)に接収貴金属等の処理に関する法律に基づき返還を請求し、1967年(昭和42)3月14日に造幣局東京支局で受領している。ただし同紀要は、大蔵省の回答に、同一品位で同一重量のものが国に残らないため評価額に相応する他の合金を引き渡す旨が記されていたことを挙げ、戻ったのは総量およそ6.4キログラムの低品位合金で鯱そのものの残滓ではないと述べる。その金塊から1968年(昭和43)に名古屋市旗の鯱型冠頭が、1969年(昭和44)に純金製の茶釜が作られた。 今も城内に残るのは、接収を免れた鱗である。同紀要は、焦土から集めた鱗の一部に、亜米利加軍ニ接収ノ際隠匿シ置キシモノ昭和二十一年六月、と台帳に記され、表裏ともに激しい被災の痕があると記す。1937年(昭和12)に北鯱の鱗58枚の金板が失われた事件の修理で余った金塊や、1945年4月の取り下ろしの最中に外れた被災の痕のない鱗も伝わる。これらは名古屋城総合事務所が所蔵し、城内の収蔵庫で保管される。焼け落ちた天守の礎石も、再建の際に御深井丸の不明門北側へ移して並べ直され、東南隅櫓など6棟は戦災を免れて現存する。 現在の金鯱は、1959年(昭和34)に再建された鉄骨鉄筋コンクリート造の天守に載る2代目であり、初代とは別のものである。名古屋城公式は、設備の老朽化と耐震性の確保への対応から天守閣を閉館中と告知しており、内部に入ることはできない。金鯱は本丸から天守の外観として仰ぎ見る形になる。本丸と御深井丸は観覧料が必要な区域であり、開園の状況や料金は名古屋城公式の案内による。

名古屋城の初代金鯱(空襲で溶けた雄と、降ろされていた雌)の位置を示す地図
この地点の地図(地理院タイルに地点を加筆)

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