四間道(しけみち・元禄の大火のあと四間に広げたと伝わる道)|何があった場所か
名古屋城下町と西側の農村地の境をなしていた、堀川西岸の道。元禄13年(1700年)の大火のあと、防火のために道幅を四間(約7メートル)へ広げたことが名の由来と伝わる。通りの東側には高さ1メートルほどの石垣が続き、その上に土蔵が建ち並ぶ。西側の2メートルから3メートルの細い路地には長屋が残り、屋根神さまや子守地蔵尊が今も祀られている。
時のながれ
- 慶長15年(1610) — 名古屋城の築城が始まり、ほぼ同じころ堀川が開削される。堀川沿いは舟運を使う商人の町として発展していく。
- 元禄13年(1700) — 大火。この後に四間道が整備され、防火のため道幅を4間(約7メートル)としたと伝わる。
- 享保9年(1724) — ふたたび大火。多くの寺院が他所へ移り、その跡地に町屋が建てられていく。
- 文化・文政期(1804〜1829) — 『名古屋府城志』に、四間道筋は元禄十三年の焼失以後に道幅を四間へ広げたためこう呼ぶ、との記述が載る。
- 明治10年頃(1877頃) — 屋根神の祭祀が始まり、明治30年代から40年代にかけて創祀されたものが最も多くなる。
- 昭和61年(1986) — 名古屋市が四間道及び大船町通周辺の約2.8ヘクタールを町並み保存地区に指定する。同年6月10日付の保存計画で、浅間神社・石垣・屋根神などが必要物件とされる。
- 昭和62年(1987) — 大船町通に面する伊藤家住宅が、1月14日付で愛知県指定有形文化財となる。
- 平成26年(2014) — 名古屋市歴史的風致維持向上計画が2月14日に国の認定を受け、堀川・四間道界隈が維持向上すべき歴史的風致のひとつに位置づけられる。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 名古屋市公式ウェブサイトの四間道町並み保存地区のページは、四間道及び大船町通周辺の約2.8ヘクタールを町並み保存地区に指定しており、四間道地区の指定を昭和61年(1986年)6月と示す。
- 名古屋市教育委員会の名古屋市四間道町並み保存地区保存計画(昭和61年6月10日付)は、名古屋市町並み保存要綱第4条に基づく計画であり、浅間神社・石垣・屋根神などを必要物件に指定すると定める。
- 同じ保存計画は、四間道が元禄13年(1700年)の大火の後に防火を目的として整備され道幅を四間(約7メートル)としたと言われる一方、土蔵の建設は元禄の大火前後に盛んに行われていたとし、町人地と町続地の境界線や堀川沿いの交通需要への対処という目的も考えられると述べる。
- 平成26年2月14日に国の認定を受けた名古屋市歴史的風致維持向上計画は、名の由来に諸説あるとしたうえで、文化・文政期の『名古屋府城志』に「四間道筋は元禄十三年辰年炎焼以後、道巾四間ひろげし故に如此唱ふ」とある旨を引用し、堀川・四間道界隈を維持向上すべき歴史的風致のひとつに挙げる。
- 同じ計画は、四間道沿いの東側に高さ1メートル程度の石垣が築かれその上に蔵が建ち並ぶこと、西側の2メートルから3メートルの路地に長屋が残り小さなお堂や屋根神さまが祀られていること、子守地蔵尊に宝永7年(1710年)の刻銘があることを記載する。
- 名古屋市博物館の資料解説は、屋根神が名古屋市域で多くみられ全国的にも珍しい信仰の形であること、昭和50年から51年の実態調査で西区129か所と市内で最も多かったこと、始まりは明治初期で昭和初期に広まったと考えられることを示す。
- 愛知県の文化財ナビ愛知は、四間道に接する伊藤家住宅(所在地は名古屋市西区那古野、所有者は名古屋市)を昭和62年1月14日指定の県指定有形文化財の建造物として登録し、堀川の水運を利用して家業を営んだ商家の屋敷の典型例と解説する。
- 国土地理院の逆ジオコーディングは代表点の北緯35.174975・東経136.892388を名古屋市西区那古野一丁目と返し、名古屋市観光情報および愛知県公式観光サイトの所在地表記である名古屋市西区那古野と一致する。
そのため、このページではこうしています
- 四間道は南北に細長い通りのため、代表点として西区那古野一丁目にあたる区間の中ほど(北緯35.174975・東経136.892388)を採った。OpenStreetMapの当該区間は北緯35.173804から35.176149までの範囲にあり、その中点にあたる。
- 四間道の南端付近は中村区に入る。国土地理院の逆ジオコーディングでは北緯35.1732付近が名古屋市中村区と返り、町並み保存地区にあたる北側は名古屋市西区と返る。
- 名古屋市西区那古野(郵便番号451-0042)と名古屋市中村区那古野(郵便番号450-0001)は別の町名である。日本郵便の郵便番号では451-0042が西区那古野にあたる。
- 四間道は北行き、一筋東の大船町通は南行きの一方通行で、名古屋市観光情報は交通量が多いため散策時の車両への注意を呼びかけている。通り沿いは現に人が住み、店が営まれている生活の場である。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 四間道という名の由来は、名古屋市の解説でも諸説ありますが元禄13年の大火後に4間に整備されたからともいわれていますという言い方であり、大火を直接の契機と確定する公的資料は確認できなかった。
- 元禄13年の大火の規模について、愛知県総合教育センターの教材ページは1649軒の町屋と15の寺社が焼失したと記すが、名古屋市・愛知県・国の資料で同じ数字を裏づけることはできなかった。
- 大火の発生月日を特定できる公的資料には到達できなかった。
- 町並み保存地区の指定は昭和61年6月までしか公表されておらず、指定の日にちを特定できる資料は確認できなかった。
- 四間道界隈に現存する屋根神さまの基数を示す最新の公的統計は確認できなかった。
- 石垣の総延長や土蔵の現存棟数を示す公的な数値は確認できなかった。
- 石垣の高さについて、名古屋市公式ウェブサイトと名古屋市歴史的風致維持向上計画は高さ1メートル程度とするのに対し、名古屋市四間道町並み保存地区保存計画は四間道沿いの蔵が1メートルから1.5メートルの石垣の上に建つとする。
- 石垣の上に土蔵が並ぶ経緯について、愛知県公式観光サイトAichi Nowは尾張藩が防火壁の機能をもたせるため通りの東側に石垣の上の土蔵を奨励したと説明するのに対し、名古屋市の保存計画は土蔵の建設が元禄の大火前後に盛んに行われていたとして防火以外の目的も考えられるとする。
- 町並み保存要綱の日付について、名古屋市町並み保存要綱の附則は旧要綱を昭和58年8月11日教育長決裁とするのに対し、四間道町並み保存地区保存計画の冒頭は昭和58年8月15日実施とする。決裁と実施で日付が分かれている可能性がある。
参考・出典
- 四間道町並み保存地区
名古屋市 - 名古屋市四間道町並み保存地区保存計画(PDF)
名古屋市教育委員会 - 町並み保存地区
名古屋市 - 名古屋市町並み保存要綱(PDF)
名古屋市教育委員会 - 名古屋市歴史的風致維持向上計画
名古屋市 - 名古屋市歴史的風致維持向上計画 第2章(堀川・四間道界隈に見られる歴史的風致、97〜112ページ・PDF)
名古屋市 - 屋根神
名古屋市博物館 - 伊藤家住宅(ID:97)
愛知県 文化財ナビ愛知 - 四間道の町並み
愛知県公式観光サイト Aichi Now - 四間道(しけみち)の町並み
名古屋市観光情報 名古屋コンシェルジュ - 四間道(しけみち)
愛知県総合教育センター 愛知エースネット
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
近くの痕跡
- 堀川(名古屋城築城とともに開削された運河)(水の痕跡・約781m)
- 笹島(ささしま)(地の痕跡・約1.2km)
- 精進川の付け替えと新堀川(堀留・記念橋付近)(水の痕跡・約2.3km)
- 空襲跡の碑(熱田空襲の記憶・堀川千年プロムナード)(戦の痕跡・約5.7km)