堀川(名古屋城築城とともに開削された運河)|何があった場所か
慶長15年(1610)、名古屋城の築城にあわせて福島正則により開削された運河。名古屋城西の幅下から熱田までの約6kmを結び、米・塩・木材を船で運ぶ城下の物流の大動脈だった。今も名古屋の都心を南北に流れている。
時のながれ
- 慶長15年(1610) — 名古屋城の築城にあわせ、福島左衛門大夫正則により開削される。名古屋城西の幅下から熱田まで長さ1里半余り(約6km)、幅12〜48間(約22〜87m)。城下で必要な米や野菜、魚、塩などの物資を船で大量に運ぶための水路だった(名古屋市公式)。
- 慶長18年(1613) — 清須から町ぐるみで移る「清須越し」がほぼ完了し、名古屋の町が誕生する(名古屋市公式)。
- 江戸時代 — 木曽の山から木曽川を経て熱田へ運ばれた木材(木曽檜)が堀川を上り、白鳥御材木役所で管理された。上流から五条橋・中橋・伝馬橋・納屋橋・日置橋・古渡橋・尾頭橋の「堀川七橋」が架けられた。
- 現在 — 名古屋駅と栄の間を南北に流れ、納屋橋・五条橋など堀川七橋の名が今も残る。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 名古屋市の公式ページ「堀川の開削」で、慶長15年(1610)に福島左衛門大夫正則により開削されたこと、名古屋城西の幅下から熱田まで長さ1里半余り(約6km)・幅12〜48間(約22〜87m)であること、城下で必要な米や野菜、魚、塩などの物資を船で運ぶための水路だったこと、上流から五条橋・中橋・伝馬橋・納屋橋・日置橋・古渡橋・尾頭橋の七橋(堀川七橋)が架けられたことを確認した。
- 名古屋城公式ウェブサイトで、徳川家康の命により福島正則が中心となって掘削したこと、木曽の山から木曽川を経て熱田へ運ばれた木材(木曽檜)が堀川を上り白鳥御材木役所で管理されたことを確認した。
- 名古屋市の公式ページ「堀川の歴史の紹介」で、慶長18年(1613)に清須からの移転「清須越し」がほぼ完了し名古屋の町が誕生したことを確認した。
そのため、このページではこうしています
- 川筋は約6kmの線状に伸びているため、座標は堀川七橋の一つ・納屋橋(広小路通)付近の代表点である。納屋橋付近では堀川が中区と中村区の境にあたり、地区表記は東岸(栄一丁目)側の中区とした。
現地確認: 未実施
参考・出典
- 堀川の開削
名古屋市(公式) - 堀川の歴史の紹介
名古屋市(公式) - 堀川と木曽御領、ものづくり(城外の発展)
名古屋城公式ウェブサイト
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
近くの痕跡
- 笹島(ささしま)(地の痕跡・約742m)
- 四間道(しけみち・元禄の大火のあと四間に広げたと伝わる道)(地の痕跡・約781m)
- 精進川の付け替えと新堀川(堀留・記念橋付近)(水の痕跡・約1.8km)
- 空襲跡の碑(熱田空襲の記憶・堀川千年プロムナード)(戦の痕跡・約5.0km)