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松重閘門(中川運河と堀川をつないだ閘門)|何があった場所か

位置精度: 地点特定 / 最終確認日: 2026-09-06

名古屋市中川区の山王一丁目、堀川と中川運河が接する地点に、四基の塔が残る。松重閘門である。 名古屋市の資料によれば、中川運河は大正13年に開削事業の都市計画が決定され、大正15年に工事へ着手、昭和5年に幹線および北支線が、昭和7年に東支線が供用を開始して全線が開通した。延長は約10.3キロメートルに及ぶ。名古屋港管理組合と名古屋市がまとめた中川運河再生計画は、当時の新聞がこれを「東洋一の大運河」と呼んだと記す。江戸期に開かれた堀川に対し、こちらは昭和に掘られた新しい運河であった。 両者は水位が違った。名古屋港管理組合の資料は、名古屋港の水位が潮の干満で名古屋港基準面プラス0.0メートルからプラス2.6メートルまで変動するのに対し、中川運河の水位は同基準面プラス0.2メートルからプラス0.4メートルに一定に保たれると記す。閘門式の運河だからである。一方の堀川は潮の干満を受け、船は「潮待ち」を強いられた。この段差をまたいで船を通す装置が松重閘門であった。 名古屋市中川区の記録では、松重閘門は昭和5年に建設され、昭和7年に開通した。土木学会選奨土木遺産の解説シートは、竣工は運河と同じ昭和5年だが、近隣の鉄道高架橋工事の影響で供用開始が二年遅れたと説明する。同シートによれば閘室は有効長90.9メートル、有効幅9.09メートル、扉はストーニー式の鋼製で、最大60トン級の船を一度に10隻収容し、通過時間は最大30分であった。 塔について、名古屋市は「水門昇降用の釣り合い錘を収容するために設けられた2基1組の塔」と説明し、高さは21メートル程、構造は鉄骨鉄筋コンクリート造、人造石塗り洗出しに一部花崗岩張、設計者を名古屋市建築課の藤井信武と記す。中川区の紹介文は、避雷針をつけた尖塔と三角窓が異国情緒を漂わせると書く。同じ組が90メートルを隔ててもう一組建ち、合わせて四基となる。 役目の終わりは早かった。中川運河再生計画は、昭和40年以降に貨物の輸送が船からトラックへ移り、昭和43年に松重閘門の使用が停止されたと記す。中川区の資料は昭和51年に役割を終えたと書き、閉鎖の年には二通りの記載がある。建設業技術者センターの記事は、解体する案もあったが塔の保存を求める市民の声が多く、昭和52年に永久保存が決まったと伝える。扉はコンクリートで固められ、閘室も埋められた。 指定は三つ重なる。名古屋市の市指定文化財一覧は、松重閘門を建造物一件、昭和61年5月27日の指定と記す。平成5年10月12日には都市景観重要建築物等の第4回指定を受け、平成22年度には土木学会選奨土木遺産に認定された。昭和61年には周囲が松重閘門公園として開かれ、中川区唯一の歴史公園となった。 船は通らなくなったが、水は今も動く。中川運河再生計画によれば、昭和12年に供用を始めた松重ポンプ所が、この接続点から日量およそ7万立方メートルの水を堀川へ送り出す水循環を現在も担う。 訪ねる者が見るのは、埋め立てられた閘室の上にそびえる四基の塔である。県道沿いと公園内に解説の板が置かれ、夜はライトアップによる演出が行われる。ただし土木学会の解説は、閘室に架かる橋の拡幅と上空を通る高速道路によって公園が分断され、四基そろった全体像を把握するのは難しいと記す。最寄りは名鉄名古屋本線の山王駅で、徒歩五分ほどである。

松重閘門(中川運河と堀川をつないだ閘門)の位置を示す地図
この地点の地図(地理院タイルに地点を加筆)

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