歴史の痕跡
入鹿池の底の村 — 寛永10年に沈んだ入鹿村と明治元年の入鹿切れ
入鹿村は、寛永10年(1633)に完成した入鹿池の底、満水時の水面から約12メートル下にあった。村人は前原や入鹿出新田などへ移った。明治元年(1868)に堤が切れた「入鹿切れ」では、犬山市の計画書によると周辺62か村が濁水にのまれ、死者は941人と記され、約1,000人ともいわれる。
目次(6項目)
愛知県犬山市の入鹿池(いるかいけ)の底には、江戸時代の初めまで入鹿村という村があった。犬山市の広報によると、村は満水時の水面から約12メートル下にあり、池を造る直前には約100戸の農家があった。池は寛永10年(1633)に完成し、それから235年後の明治元年(1868)、堤が切れて下流の村々が濁水にのまれた。のちに「入鹿切れ」と呼ばれる。
(この記事の見出し画像は、村の記憶を水面に重ねた想像の絵で、現在の湖底の様子を示すものではない。)
池そのものの成り立ちと年表は「入鹿池」のページにある。ここでは、沈んだ村の人と神社がどこへ移ったのか、堤はどれほどの長さだったのか、そして決壊した水の記録が今どこに残っているのかを、距離と方位で追う。

図は犬山市と国土地理院の資料の年を並べたもので、白抜きの印は資料によって年が分かれるものだ。
3本の川が1本になって出ていく盆地だった
犬山市の歴史的風致維持向上計画は、入鹿村の地形をこう書く。周りを山に囲まれた盆地状の低地に、今井川(いまの成沢川)、小木川(いまの五条川)、奥入鹿川(いまの郷川)の3本が流れ込み、村の中で1本になって銚子口から外へ流れ出ていた。
出口が一か所しかない盆地なら、そこを締め切れば水がたまる。この構想を出したのが、江崎善左衛門をはじめとする入鹿六人衆だ。農林水産省は六人衆を浪人たちと書き、名前として鈴木作右衛門と江崎善左衛門を挙げる。犬山市の広報は、小牧や大口などの有力者らと書く。狙いは村の外にあった。広報によると、池ができる前の丹羽郡や春日井郡の台地は水源が少なく、荒地が広がっていた。
工事の始まりの年は、同じ犬山市の資料でも食い違う。歴史的風致維持向上計画は寛永5年(1628)に着手したと書き、文化財保存活用地域計画は寛永5年に願い出て寛永9年(1632)に許可を得て着手したと書く。完成を寛永10年とする点は一致している。
長さ約百間の堤は、橋を燃やして築いた
銚子口の締め切りは、流れが速くて難航した。歴史的風致維持向上計画によると、決め手になったのは河内国の甚九郎が考えた「棚築き」だ。川に木の橋を架け、その上に木や枝をのせて土石を盛り、橋に火をかけて土石を一気に落とす。こうして築いた堤は長さが100間あったことから「百間堤」、築いた甚九郎の国にちなんで「河内屋堤」と呼ばれる。水の量を調節する樋(とい)は、尾張一宮の真清田神社の修理大工、原田与左衛門と平四郎が造った。

橋を燃やして土石を落とす「棚築き」を思わせる想像の景色(挿絵)。実際の施工の再現ではない。
広報は百間を約180メートルと換算している。同じ広報が挙げる今の入鹿池の数字は、堤長724.1メートル、堤高25.7メートル、総貯水容量1,518万立方メートルだ。今の堤の長さは、最初の百間堤のおよそ4倍にあたる。ただし今の数字は明治以降の修復と増築を経たもので、最初の堤と同じ範囲を測ったものかどうかは資料からは分からない。
池ができたあと、周辺では水田の開発が進み、広報によると尾張藩は6,883石の増収になった。

図は広報の数字を横棒の長さにしたもので、二つが同じ範囲を測った数字かどうかは分からない。
沈んだ村の人と神社は、北西の前原へ移った
池ができる代わりに、入鹿村は水に沈んだ。歴史的風致維持向上計画によると、村の人々は池の周りや、新たに開かれた前原、入鹿出新田(小牧市)などへ移った。村にあった天道宮と、その宮寺の白雲寺、式内社の虫鹿神社も村人とともに前原へ移され、天道宮と虫鹿神社はいまも残っている。
距離にすると、国土地理院の地名検索で入鹿池の位置として返る点から、前原の地名の点までは北西へ約2.7キロ、入鹿出新田までは西南西へ約9.4キロある(地図上の直線距離を私が計算した値)。犬山市の広報も前原を「入鹿池北西部」と書いていて、方位は合っている。
調べていて意外だったのは、沈む前の村の姿を伝える記録の少なさだ。広報は、池の築造後、水没前の村の状況を示す古文書も残っていないと書く。そのなかで、犬山市の二つの計画書の年表は、慶長18年(1613)に鋳物師の彦六郎が「天道宮(入鹿村)」の鐘を鋳造したと記す。村が沈む20年前のことだ。
神社が前原へ移った年は、資料によって2年ずれる。文化財保存活用地域計画は、天道宮神明社の楼門について、寛永10年(1633)に現在地へ移されたと「言われている」と書く。一方、同じ計画書の年表は、天道宮と虫鹿神社の前原への遷座を寛永12年(1635)の行に置いている。
235年後、堤の西南が切れた
明治元年の春、雨が降り続いた。国土地理院が公開している自然災害伝承碑の説明によると、旧暦4月から降り続いた雨で池は満水になり、旧暦5月14日の午前4時ごろ、西南部の堤が崩れた。新しい暦では1868年7月3日にあたる。農林水産省も、4月下旬からの激しい雨と5月14日の決壊を記す。
被害の数は資料によって違う。犬山市の文化財保存活用地域計画は、入鹿池から流れ出た濁水が周辺の62か村を飲み込み、死者941人、負傷者1,471人、流失家屋807戸、浸水家屋11,709戸の被害が生じたと書き、犬山で起きた水害のうち最も被害が大きいものとする。国土地理院の碑の説明も死者941人とする。一方で農林水産省と犬山市の広報は、死者を約1,000人とし、農林水産省は「といわれています」と添える。どちらが正しいかではなく、数え方の範囲が示されていないので、このまま並べておく。
浸水した範囲について、国土地理院の碑の説明は、現在の犬山市、扶桑町、江南市、大口町、一宮市の一部が浸水したと書く。犬山市の「犬山文化遺産ナビ」は、五条川流域に多くの被害が出たとする。
下流に残る3基の碑までの距離
入鹿切れを伝える碑のうち、国土地理院が自然災害伝承碑として地図に載せているのは、犬山市に1基、大口町に2基の計3基だ。入鹿池の位置の点から、3基はどれも西の方角に並ぶ。
| 碑の名前 | 所在地 | 池の点からの距離と方位 | 国土地理院が記す建立年 |
|---|---|---|---|
| 入鹿洪水溺死群霊塔 | 犬山市大字羽黒 | 約3.8キロ・西北西 | 1900年 |
| 入鹿溺死亡霊の碑 | 大口町河北二丁目(妙智寺内) | 約6.1キロ・西 | 1898年 |
| 暴水流亡各靈墓 | 大口町城屋敷一丁目 | 約7.3キロ・西 | 1868年 |

図は国土地理院の点の座標から計算した位置を同じ縮尺で置いた模式図で、池と川の形は描いていない。
距離は、地理院地図に載る碑の位置と、入鹿池の位置の点との直線距離を私が計算した値だ。実際に切れた堤は池の西南部にあり、この点とは位置が違う。また、碑が建っている場所は、水が届いた端を示すものではない。
碑の説明には、その土地の被害が書かれている。羽黒の碑の説明は、旧羽黒村の被害が特に大きく、多くの人が濁流に流されたと書く。妙智寺の碑の説明は、旧河北村に深いところで高さ約3メートルの濁流が押し寄せ、家屋のほとんどが流され、約80名の命が奪われたと書く。城屋敷の碑の説明は、流された水が西側の低地に流れて多くの村々が浸水し、流没した耕地は約8,500ヘクタールに及んだとし、碑の台石には水害を受けた村の名前が記してあると書く。
自分で地図に重ねてみる
入鹿切れの広がりを確かめたいなら、国土地理院の地理院地図で「自然災害伝承碑」の表示を重ねるのが早い。碑の記号を押すと、名称、建立年、災害の説明が出る。そのうえで、池の西南の端から五条川の流れに沿って西へ目を移すと、3基の碑がどのあたりに並ぶかが分かる。伝承碑の地図の読み方は「大阪に残る自然災害伝承碑を地図でたどる」にまとめてある。
碑のある場所は寺の境内や町なかにある。訪ねるときは、寺の参拝の決まりと近隣の住まいに気を配りたい。碑の場所は、いまの洪水の危険度を示すものでもない。現在の備えには、各市町の最新のハザードマップを使う。
ダムや溜池の底に沈んだ村は、全国にほかにもある。電源開発や水道のために村ごと移った7つの湖は「湖の底に、村がある」でたどっている。
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