歴史の痕跡
お玉ヶ池はどこへ消えたのか — 池の伝説と1858年の種痘所
お玉が池は今の千代田区岩本町二丁目のあたりにあった池で、正確な場所は分かっていない。1834〜1836年刊の江戸名所図会は稲荷の傍らに井戸のような形が残るだけと書き、明治40年(1907)の東京遊覧案内は祠の中の小さなくぼ地とする。1858年、その地に種痘所が開かれた。
目次(4項目)
江戸の神田にあった「お玉が池」は、天保5〜7年(1834〜1836)に刊行された『江戸名所図会』の時点で、すでに稲荷の小さな祠の傍らに井戸のような形を残すだけだった。明治40年(1907)に東京市が編んだ『東京遊覧案内』は、池の跡を於玉稲荷の祠の中の小さなくぼ地にすぎないと書く。いま水面はどこにもない。千代田区岩本町二丁目に、その名をとどめる稲荷と説明板、そして安政5年(1858)に開かれた種痘所の跡を示す碑が残る。
(この記事の見出し画像は、『江戸名所図会』の記述をもとにした想像の絵で、池の形や祠の姿を再現したものではない。)
池がどこにあったのか、正確な場所は分かっていない。千代田区の文化財の説明板は、岩本町二丁目・神田岩本町・神田東松下町の周辺であったと考えられる、と書く。表記は資料によって「お玉が池」「お玉ケ池」「於玉ヶ池」と揺れるが、同じ池を指す。地点は「お玉が池跡」のページにある。ここでは、池の名の由来として伝わる話、池が小さくなっていった記録、池の名を冠した種痘所を、年代の順に並べる。

図は千代田区・東京大学・国立国会図書館の資料にある年を並べたもので、池を埋めた年は、開いた資料の中に見当たらない。
「お玉」の名の由来として伝わる話
千代田区の説明板「神田お玉が池界隈」は、池の名の由来をこう書く。当初は桜が池と呼ばれていたが、ほとりにあった茶店のお玉という女性が池に身を投げた故事から、お玉が池と呼ばれるようになったといわれている。
同じ話は『江戸名所図会』の巻之一にある。国立国会図書館デジタルコレクションで天保年間の版本を開くと、「於玉ヶ池」の項は話の出どころを「里老伝云」、つまり土地の老人の言い伝えとして示している。昔この地は奥州への通り道で、桜の木が多くあったので桜が池と呼んだ。桜の木の下で玉という女が往来の人に茶をすすめていた。そこへ「人からも品形もおなしさまなる男二人」が心を寄せ、どちらとも決めかねた女は、ついにこの池に身を投げた。里の人々は亡骸を池の辺に埋め、しるしに柳を植えて「記念の柳」と名づけた、という。図会はこの話を、摂津国の求塚の古事に似ているとも添える。
次の見開きには「於玉ヶ池の古事」と題した挿絵がある。満開の桜の下で茶の道具を前に座る女と、道をゆく二人の男が描かれている。

桜の木の下の茶店を思わせる想像の景色(挿絵)。実際の地形・建物の再現ではない。
調べていて意外だったのは、図会がこの話を、編者が確かめた事実ではなく老人の言い伝えとして載せていたことだ。1830年代の時点で、話の出どころはすでに言い伝えだった。千代田区が平成16年(2004)に立てた町名由来板「神田松枝町」も、図会を引いてこの話を紹介している。
池は、記録の上でどれほど小さくなったのか
池の大きさについて、千代田区の説明板「お玉が池跡」は「不忍池よりも大きかったという言い伝えもありますが、詳しいことは分かっていません」と書く。区の文化財サイトの別のページは上野の不忍池より「はるかに大きな池」とし、千代田区観光協会は、徳川初期には不忍池ほどの広さだったとする。大きさを測った数字は、どの資料にも無い。
確かめられるのは、記録が書かれた時点ごとの姿だ。
『江戸名所図会』は、当時の神田松枝町の人家の裏庭に於玉稲荷という小さな祠があり、その傍らに「少く井の如き形」が残ると書く。それが昔の池の名残だという。続けて、往古は大きな池だったが、江戸の繁昌にしたがって次第に埋もれ、このようになったと記す。項の終わりに小さな字で添えた注は、その旧址が「明暦の回禄」、つまり明暦の火事で亡び、今は名だけが残ると伝える。内閣府の中央防災会議の資料によると、明暦の大火は明暦3年(1657)1月18日から19日にかけて起き、焼失区域は今の千代田区と中央区のほぼ全域に及んだ。
図会から70年余りたった明治40年、東京市の『東京遊覧案内』は「於玉ヶ池址」の項で、所在を神田区松枝町とし、往古はたいそう大きな池だったが、今はただ於玉稲荷の祠の中の小さなくぼ地にすぎないと書く。
池を埋めた年を示す記録は、今回開いた資料の中には無かった。千代田区の説明板「神田お玉が池界隈」は、池は江戸時代の早い時期に埋め立てられたとする。区の文化財サイトは、池の西を流れていた谷田川の洪水を防ぐために柳原の堤ができ、洪水がなくなって池は江戸時代に埋め立てられた、と説明する。

図は資料の書き方をそのまま並べたもので、大きさを比べられる数字は一つも無い。
1858年、池の名を冠した種痘所
図会が井戸ほどの形を書いてから20年余り後、この土地の名は医学の歴史に出てくる。
東京大学医学部の沿革は、安政5年(1858)5月に「江戸市中の蘭医83名の醸金により神田御玉ケ池に種痘所が設立された」と記す。種痘は、天然痘を防ぐために牛痘を接種する方法だ。東京大学総合研究博物館の解説によると、日本で最初に接種が成功したのは嘉永2年(1849)の長崎で、同じ年の末には江戸にも伝えられた。同じ解説は開所の日を安政5年5月7日とし、資金を出した蘭方医を82名と書く。人数は東京大学の二つの資料で1名違う。
千代田区観光協会によると、種痘所は勘定奉行の川路聖謨の屋敷にあったといわれている。
お玉ケ池に種痘所があった期間は短い。医学部の沿革によると、開設から半年後の11月に神田相生町からの出火で類焼し、伊東玄朴の家などで業務を続けた。翌安政6年(1859)9月には、下谷和泉橋通りに新築して移る。万延元年(1860)10月に幕府直轄の種痘所となり、文久元年(1861)10月に西洋医学所、文久3年(1863)2月に医学所と名を変えた。区の文化財サイトは、移転を翌々年の火災のためとし、幕府の機関になった年を1861年とするので、年は資料によってずれる。
東京大学は、前身の一つである東京医学校の起源を「安政5年(1858年)に神田お玉ケ池に開設された種痘所」に置いている。博物館の解説によると、昭和33年(1958)5月7日に東京大学大講堂で医学部の創立百年の式典が開かれた。
図会が池の名残を井戸ほどと書いた土地に、20年余り後、「お玉ケ池」の名で種痘所が開かれた。千代田区の町名由来板「東紺屋町」は、明治5年(1872)に編入された武家地の一角を「通称『お玉が池』と呼ばれていたあたり」と書く。町名由来板「東松下町」も、武家地に「お玉が池」という通称の一角があったと記す。
岩本町二丁目で「お玉」を探す
この一帯の町名は、昭和の半ばまで神田松枝町などだった。町名由来板「東紺屋町」によると、昭和40年(1965)の住居表示の実施で、神田東紺屋町の一部、神田松枝町、神田大和町、神田東松下町の一部、神田元岩井町の一部が合わさって岩本町二丁目になった。町名由来板「神田松枝町」は、この界隈が昭和四十年代のはじめまで神田松枝町と呼ばれていたと書く。松枝の名は、江戸城の大奥にいた「松ヶ枝」という老女中の名に由来するという説があり、宝永2年(1705)ころから町の呼び名になったという。
いま「お玉」の名を残すものは、岩本町二丁目5番に集まっている。繁栄お玉稲荷神社の境内に区の説明板「お玉が池跡」が、お玉が池児童遊園に説明板「神田お玉が池界隈」がある。町名由来板「神田松枝町」の所在地も岩本町二丁目5番だ。
種痘所の跡を示す「江戸最初のお玉ヶ池種痘所のあった所」の碑は、千代田区観光協会によると岩本町2-7-11にあり、岩本町駅A5出口から歩いて5分ほどだ。町名由来板「神田松枝町」は、種痘所跡を記す碑が町内の交差点と、少し南の建物の所にあると書く。
国土地理院の住所検索で返る街区の点どうしで測ると、5番の街区から7番の街区までは南へ約120メートルある。町名由来板「東紺屋町」のある岩本町二丁目2番の街区は南南西へ約180メートル、町名由来板「東松下町」のある神田東松下町17番地は西へ約180メートルだ(どれも地図上の直線距離を私が計算した値)。

図は街区の点の位置関係を縮尺どおりに置いた模式図で、池の範囲は分からないので描いていない。
池の範囲を示した資料は、今回開いたものの中には無かった。手がかりは、説明板に書かれた古い町名と、図会の文だ。『江戸名所図会』は国立国会図書館デジタルコレクションで誰でも開ける。天保年間の版本の第1冊(請求記号839-57)では、57コマ目に「於玉ヶ池」の項の書き出し、58コマ目に挿絵「於玉ヶ池の古事」、59コマ目に話の続きがある。図会が稲荷の場所として書いた「神田松枝町」と、昭和四十年代のはじめまで神田松枝町と呼ばれた界隈に立つ由来板とを、並べて読んでみてほしい。古い町名から土地の来歴をたどる手順は「地名の由来はどう調べる?」にまとめてある。
稲荷は、町名由来板の文によるとマンションの狭間に残る小さな社だ。訪ねるときは参拝の作法と近隣の住まいに気を配り、碑や説明板を見るときは通行の妨げにならないようにしたい。
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この記事の場所のそばにある痕跡
- 「両国」の地名由来(両国橋)(お玉が池跡 から 地の痕跡・約1.1km)
- 「鳥越」の地名由来と鳥越の丘(お玉が池跡 から 地の痕跡・約1.2km)
- 回向院(両国・万人塚に始まる寺)(お玉が池跡 から 死の痕跡・約1.4km)
- 平将門の首塚(将門塚)(お玉が池跡 から 死の痕跡・約1.5km)
お玉が池跡の周りには、千代田区の痕跡が2件ある。
千代田区の痕跡 2件をひらく →この記事について
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