お玉が池跡(江戸名所図会が「井の如き形」と書いた池と、1858年のお玉ヶ池種痘所)|何があった場所か
千代田区岩本町二丁目の繁栄お玉稲荷神社の境内に、区の説明板「お玉が池跡」が立つ。千代田区によると、この地域には江戸時代以前にお玉が池と呼ばれる池があり、当初は桜が池と呼ばれていたが、ほとりにあった茶店のお玉という女性が池に身を投げた故事から、お玉が池と呼ばれるようになったといわれる。天保5〜7年(1834〜1836)刊の『江戸名所図会』も同じ話を土地の老人の言い伝えとして載せ、そのころ池はすでに、神田松枝町の人家の裏庭にある於玉稲荷の傍らに、井戸のような形を残すだけだったと書く。
区の説明板は、池は江戸時代の早い時期に埋め立てられ、正確な場所は不明だが、岩本町二丁目・神田岩本町・神田東松下町の周辺であったと考えられるとする。明治40年(1907)の『東京遊覧案内』は、池の跡を於玉稲荷の祠の中の小さなくぼ地にすぎないと記す。安政5年(1858)、江戸の蘭方医たちが資金を出し合い、この地に種痘所を開いた。種痘所は同じ年の11月に類焼し、翌年に下谷和泉橋通りへ移った。東京大学は、医学部の前身である東京医学校の起源をこの神田お玉ケ池の種痘所に置いている。種痘所の跡を示す碑は、千代田区観光協会によると岩本町2-7-11にあり、ピンのある街区から南へ約120メートルの街区にあたる(街区の代表点どうしの直線距離)。ピンは稲荷と説明板のある街区に置いたもので、池の範囲を示すものではない。

近くの痕跡
- 「両国」の地名由来(両国橋)(地の痕跡・約1.1km)
- 「鳥越」の地名由来と鳥越の丘(地の痕跡・約1.2km)
- 回向院(両国・万人塚に始まる寺)(死の痕跡・約1.4km)
- 平将門の首塚(将門塚)(死の痕跡・約1.5km)
時のながれ
- 江戸時代以前 — この地域にお玉が池と呼ばれる池があり、当初は桜が池と呼ばれていたと千代田区は記す。
- 宝永2年(1705)ころ — 町名由来板によると、この一帯が松枝町と呼ばれ始める。
- 天保5〜7年(1834〜1836) — 江戸名所図会が刊行される。於玉稲荷の傍らに井の如き形が残ると記す。
- 安政5年(1858) — 5月、蘭方医たちの資金で神田お玉ケ池に種痘所が開かれる。11月に類焼。
- 安政6年(1859) — 9月、種痘所が下谷和泉橋通りへ新築して移る。
- 明治40年(1907) — 東京遊覧案内が、池の跡を於玉稲荷の祠の中の小さなくぼ地と記す。
- 昭和40年(1965) — 住居表示の実施で、神田松枝町などが岩本町二丁目になる。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 千代田区の説明板「神田お玉が池界隈」(岩本町二丁目5 お玉が池児童遊園内)は、江戸時代以前にこの地域にお玉が池と呼ばれる池があり、江戸時代の早い時期に埋め立てられ、正確な場所は不明だが岩本町二丁目・神田岩本町・神田東松下町周辺であったと考えられると記す。
- 天保5〜7年刊『江戸名所図会』巻之一の版本(国立国会図書館、請求記号839-57)は、於玉ヶ池の旧名を桜ヶ池とし、神田松枝町の人家の後園に於玉稲荷の小祠があり、その傍らに井の如き形が残り、昔の池の余波であるといわれると記す。お玉の身投げの話は里老の伝えとして載る。
- 東京市編『東京遊覧案内』(明治40年)は、於玉ヶ池址を神田区松枝町とし、往古は頗る大なりしも今は只於玉稲荷祠内の一小凹地たるに過ぎずと記す。
- 東京大学医学部の沿革は、安政5年5月に江戸市中の蘭医83名の醵金で神田御玉ケ池に種痘所が設立され、11月に神田相生町からの出火で類焼し、安政6年9月に下谷和泉橋通りに新築移転したと記す。
そのため、このページではこうしています
- お玉の身投げの話は、区の説明板が「といわれています」と書き、江戸名所図会が里老の伝えとして載せる伝承で、事実として確かめられる資料は無い。
- ピンは稲荷と説明板のある街区の代表点で、池の位置や範囲を示すものではない。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 池を埋め立てた年を示す記録は、確認した資料の中には無い。
- 種痘所が勘定奉行川路聖謨の屋敷にあったという話は、千代田区観光協会が「といわれています」と記すもので、一次資料では確認していない。
- 池の広さについて、区の説明板は不忍池よりも大きかったという言い伝えがあるが詳しいことは分かっていないと記す。広さを示す数字はどの資料にも無い。
- 種痘所の設立に資金を出した蘭方医の数は、東京大学医学部の沿革が83名、東京大学総合研究博物館の解説が82名と記す。
- 種痘所の移転と幕府直轄化の年は、東京大学医学部の沿革が類焼を安政5年11月、移転を安政6年9月、幕府直轄を万延元年10月とし、千代田区の文化財サイトは移転を翌々年の火災のためとし、幕府の機関となった年を1861年とする。
この痕跡を掘り下げた記事
参考・出典
7件出典に基づいて掲載している
- 神田お玉が池界隈(文化財サイン)
千代田区文化財サイト(千代田区教育委員会 文化財事務室) - お玉が池跡(文化財サイン)
千代田区文化財サイト(千代田区教育委員会 文化財事務室) - 町名由来板:神田松枝町
千代田区 - 江戸名所図会 7巻 [1](天保5-7刊)於玉ヶ池
松濤軒斎藤長秋著・長谷川雪旦画/国立国会図書館デジタルコレクション - 東京遊覧案内(於玉ヶ池址)
東京市編・博文館(1907)/国立国会図書館デジタルコレクション - 沿革
東京大学大学院医学系研究科・医学部 - 「江戸最初のお玉ヶ池種痘所のあった所」碑(東大医学部発祥の地)
千代田区観光協会(公式)
この場所について
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