歴史の痕跡
石碑の文字に、毎年墨が入れられている — 大正橋の「大地震両川口津浪記」
JR大正駅から北東へ300メートルほど。木津川に架かる大正橋の東詰、車の絶えない交差点の歩道に、高さ2メートルほどの石碑が立っている。
大地震両川口津浪記。1855年(安政2年)7月に建てられた碑だ。
この碑には、少し変わった特徴がある。刻まれた文字に、いまも墨が入っていて読める。建立から170年あまり、地元の人が毎年夏、文字に墨を入れ続けているからだ。なぜそんなことが続いているのか。答えは碑文の最後の一行にある。順番に見ていく。
1854年、津波は川を遡った
嘉永7年11月4日——西暦でいえば1854年12月23日——の朝、大地震が起きた(安政東海地震。直後に元号が安政へ改まったため、この名で呼ばれる)。大阪の人々は余震を恐れて空き地に小屋を掛け、そして多くの人が、小舟に乗って川の上へ避難した。家屋の倒壊から逃れるには、水の上が安全に思えたからだ。
翌5日の夕方、二度目の大地震(安政南海地震)。日暮れ頃、海から津波が来た。碑文は「安治川ハ勿論、木津川別而はげ敷、山の如き大浪立」と刻む。安治川はもちろん、木津川はとりわけ激しく、山のような大波が立った。
停泊していた大小の船は碇綱が切れ、一斉に川上へ押し流された。安治川橋、亀井橋、高橋、日吉橋——多数の橋が、流れてきた船に突き上げられて次々に落ちた。大黒橋のたもとでは大船が横倒しになり、小船を下敷きにして「舩山をなして」——船の山ができた、と碑文は書く。
川に避難していた人々のところへ、船の山が押し寄せた。「助ケすくふ事あたハす」。助け救うことができなかった。
147年前にも、同じことが起きていた
碑文は、ここからが本題だ。
この148年前——碑文は「百四十八ケ年前」と刻むが、実際には147年前にあたる(立命館大学の研究論文が注記している)——宝永4年(1707年)の宝永地震のときも、小舟に乗って津波で溺死した人が多かった「とかや」。〜だそうだ、という伝聞で碑文は書く。そして続ける。
年月へたてハ傳ヘ聞人稀なる故、今亦所かはらす夥敷人損し、いたま敷事限なし
年月を経ると、伝え聞く人が稀になる。だから今また、同じ場所で、おびただしい人が失われた。痛ましいことこの上ない——。
同じ川で、同じ「船への避難」で、147年おいて二度。立命館大学の論文は、江戸期の随筆『九桂草堂随筆』に残る話を紹介している。ある家の過去帳を調べると、宝永と安政の二度の津波で、同じ家から船に乗った女性6人が亡くなっていた。教訓は、一つの家の中でさえ、147年はもたなかった。
碑は、数を刻まなかった
安政の津波の犠牲者数は、資料によって幅がある。だが碑文自体は、数を書いていない。「夥敷(おびただしい)」とだけ書いた。
数の代わりに刻んだのは、具体的な行動の指示だ。
都而大地震の節ハ津浪起らん事を兼而心得、必舩に乗へからす
すべて大地震のときは津波が起きるものと心得て、決して船に乗ってはいけない。ほかにも、火の用心、大切な証文は蔵へ、停泊中の船は繋ぎ替えを——と続く。地面から泥水が吹き上がることへの注意もあり、いまでいう液状化らしき現象まで観察して書き残している。
「墨を入れ給ふべし」
そして碑文は、こう結ばれる。
願くハ心あらん人、年々文字よミ安きやう、墨を入給ふへし
願わくは心ある人、毎年、文字が読みやすいように、墨を入れてください。
石碑は建てただけでは風化する。文字が薄れれば、読む人がいなくなる。読む人がいなくなれば、147年前と同じことが繰り返される——それを地震の翌年に見抜いて、「毎年墨を入れる」という維持の仕組みごと石に刻んだ。
この頼みは、守られている。内閣府の災害教訓報告書(2005年)は「現在も町内の住民の手によって維持・管理されており、年に1回碑文に墨が入れられている」と記す。地元の保存運営委員会が、毎年8月下旬の地蔵盆に合わせて碑を洗い、墨を入れ、供養を営んでいる。碑が建った渡し場は大正橋になり、周りはビルと車の街になったが、墨入れだけが続いている。
いまの大阪と
この碑は、過去の話として立っているのではない。
内閣府の報告書は、南海トラフの地震で「大阪の市街地を流れる河川に沿って津波が遡上する事態が十分考えられ」ると書く。実際、昭和21年(1946年)の昭和南海地震でも、安治川で船が流される被害が出た。立命館大学の論文は、南海地震が90〜150年間隔で繰り返してきたことと、地盤沈下で大阪市内に海抜ゼロメートル地帯が広がっている現状を並べて警鐘を鳴らしている。
碑が渡し場——人通りのいちばん多い場所——に建てられたのは偶然ではない。内閣府の報告書は「多くの人の目に触れさせようとした建碑者の意図がうかがえよう」と書いている。171年前の大阪の町人が設計した防災広報は、国土地理院の「自然災害伝承碑」として地図に載り、いまも現役で動いている。
訪ねるときに
JR大阪環状線の大正駅から北東へ約300メートル、大正橋の東詰。碑の北側には、原文と現代語訳の案内板が設置されている(浪速区)。
この碑は防災の資料であると同時に、供養塔でもある。西面には「南無阿弥陀佛」の名号が刻まれ、亡くなった人々の冥福を祈り続けてきた。交差点の騒がしい場所だが、読むときは、そのことを胸に置いておきたい。
大阪の水害の記憶は、地名にも残っている。水害地名と大阪の水際地名にまとめた。
場所と資料は大地震両川口津浪記のページに。
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