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現地レポ

地元なのに、知らなかった — 采女城跡と杖衝坂と、名前の分からない鳥居

2026-08-11 | 執筆・編集:痕跡マップ編集部

8月11日の夕方、地元の采女(うねめ)を歩いてきた。

四日市に住んでいるのに、このあたりにちゃんと来たのは初めてだと思う。若い頃はまったく関心がなかった。采女城跡という山城の跡があると知って、行ってみることにした。

結論から書くと、地元すぎて素通りしてきた場所に、古事記から戦国まで詰まっていた。そして帰り道に、正体の分からない鳥居をひとつ見つけてしまった。順番に書く。

采女城跡 — 入口の時点で、だいぶ雰囲気がある

あすなろう鉄道の内部駅から歩いて15分ほど。内部川と足見川が合流するあたりの川沿いに、登城口の冠木門がぽつんと立っている。川の景色はとても綺麗だ。それだけに、門の奥に続く薄暗い山道との落差がすごい。

登城口の冠木門。2022年、四日市中央ライオンズクラブの寄贈
登城口の冠木門。2022年、四日市中央ライオンズクラブの寄贈

正直、少し怖かった。オカルト好きの人なら、この入口はかなり「来る」と思う。

冠木門から登城口へ。舗装はなく、雰囲気は十分

登り始めると、これが結構な急坂だった。ロープが張ってあるので道は分かるが、舗装は一切なく、落ち葉で足場が滑る。息が切れる。サンダルや半ズボンは絶対にやめた方がいい。虫もいるし、夏場は本気の靴と長ズボンが必要だ。

郭へ続く登城道
郭へ続く登城道

登っていくと「五の郭」「空堀」といった標識が次々に現れる。この城、3本の尾根に9つの郭が並ぶ、かなり大きな山城なのだ。保存会のガイドブックによれば城域は270m四方。後藤氏の居城として約300年続いたと伝わり、織田信長の伊勢侵攻で落城したとされている(落城の年には諸説あって、保存会自身が「通説の永禄11年には矛盾がある」と書いているのが面白い。断定しない姿勢は見習いたい)。

五の郭の標識
五の郭の標識

途中に橋もあった。渡ろうとしたら蜘蛛の巣が張っていて、しばらく誰も通っていないらしい。人の気配のない城跡を、標識だけが律儀に案内してくれる。

郭をつなぐ木橋。蜘蛛の巣が張っていた

全部の郭を回るとかなりしんどいので、私は途中まで行って引き返した。それでも、当時ここに何があったのかを想像しながら歩くには十分だった。城好き・歴史好きには本当に良い場所だと思う。ちゃんとした観光地のように整備されているわけではなく、「一応道はある」くらいの感じ——それがかえって、450年前をそのまま残している。

井戸の伝承 — 説明板が「語り」を記録していた

一の郭には深さ6.5mの井戸が残っている。登城口の説明板に、この井戸の伝承が書かれていた。

落城のとき、城主は燃える城で自刃し、千奈美姫や奥方はこの井戸に身を投げたと伝えられる。そして後世、「夜な夜な女のすすり泣きが聞こえてくる」「馬のいななきや、女人の悲鳴が細く尾を引く」——そんな話が語り継がれている、と説明板自体が記している。

保存会による「采女城の落城と古井戸の伝承」の説明板
保存会による「采女城の落城と古井戸の伝承」の説明板

これは保存会が平成26年に立てた公式の説明板だ。つまり「そういう語りが伝わってきた」ということ自体が、この土地の記録として保存されている。伝承は伝承として、事実は事実として書き分けられていて、読みごたえがある。現地に行ったら、ぜひ説明板をじっくり読んでほしい。

杖衝坂 — 「三重」の名前は、ここで生まれたと伝わる

采女城から国道1号の方へ歩くと、読み方の分からない坂に出た。「杖衝坂」。つえつきざか、と読む。

杖衝坂。路面の丸模様は二輪車の滑り止め
杖衝坂。路面の丸模様は二輪車の滑り止め

帰って調べて驚いた。この坂、古事記に出てくる。

東征の帰り、傷ついたヤマトタケルがこの坂にさしかかり、疲れ果てて剣を杖の代わりに衝いて登った。だから杖衝坂——古事記の景行天皇条に、そう名付けの由来が書かれている。そして続く三重村の場面で「吾が足は三重の勾のごとくして甚疲れたり」と嘆いた言葉が、「三重」という地名の由来として記されている。

この「三重」はのちの三重郡になり、明治5年、県庁が三重郡四日市に移った際に県名として採用された(三重県の県史編さんのページに経緯がある)。つまり三重県という名前の遠い源流が、この坂の伝承のあたりにあるわけだ。地元の坂が、県名の由来譚の伝承地だった。

江戸時代にはここで松尾芭蕉が馬から落ちている。「歩行(かち)ならば杖衝坂を落馬かな」——季語のない句として有名だそうで、坂には句碑も立つ。東海道の難所ぶりが、神話と俳句の両方に残っている。

坂下から。正面の高台に金刀比羅宮
坂下から。正面の高台に金刀比羅宮

坂の途中には金刀比羅宮の小さな社が立っている。急坂の上り口に海上安全・交通安全の金毘羅さんが祀られているのは、ここが難所だった証しのようにも見える。

杖衝坂の金刀比羅宮。旧東海道の坂の途中に立つ
杖衝坂の金刀比羅宮。旧東海道の坂の途中に立つ

名前の分からない鳥居 — AIと調べて、それでも分からなかった

さて、ここからが今回いちばんの収穫かもしれない。

采女城跡へ向かう途中の川沿いで、妙なものを見つけた。神社の看板も何もないのに、道路脇に鳥居が立っている。しかも注連縄が掛かっていて、奥には6畳ほどの小さな建物がひとつ。人が住んでいる様子はない。庭木は手入れされ、玉砂利が敷かれ、手水鉢らしき石もある。

登城口から南へ約180mの川沿いで見つけた鳥居
登城口から南へ約180mの川沿いで見つけた鳥居

なんだろう、これは。気になって、帰ってからChatGPTに写真と座標を渡して聞いてみた。AIの推理はこうだ——鳥居はもともと「ここから先は神域」という境界標識だから、社殿がなくても珍しくない。注連縄が生きているので、今も誰かが祀っている可能性が高い。規模からすると、屋敷神か、地域の数軒で守る小さな社ではないか。

もっともらしい。だが、うちは出典主義のサイトなので、この推理を資料で検証してみた。すると面白いことが分かった。AIが挙げてきた具体的な候補(この地区の七社を巡ったという記録や、特定の社名)は、元の資料をたどっても裏付けが取れなかったのだ。地区の公式サイトや保存会のガイドブックにも、この場所の鳥居への言及はない。

つまり現時点で確かなのは、「采女城の登城口から南へ180mの川沿いに、今も手入れされている名前の分からない小さな神域がある」ということだけ。AIは筋のいい仮説をくれるが、裏付けは資料と足でしか取れない。

次の一手は決めてある。采女城跡保存会の窓口になっている内部地区市民センターに聞いてみることだ。地元の人なら一言で答えが出る類の話だと思う。分かったら、この記事に追記する。

日永の追分 — 地元すぎて、意識したことがなかった

最後に、帰り道の日永の追分へ寄った。東海道から伊勢街道が分かれる分岐点。ここは昔から知っている。知っているが、ちゃんと見たことがなかった。

伊勢神宮遥拝鳥居。この先で道が二手に分かれる
伊勢神宮遥拝鳥居。この先で道が二手に分かれる

現地の碑と説明板を読むと、こういう場所だった。安永3年(1774)、江戸で店を営む伊勢商人・渡辺六兵衛が、「参宮街道の分岐に遥拝鳥居がないのは残念だ」と私財で鳥居を建てた。以来、鳥居は伊勢神宮の式年遷宮にあわせて建て替えが重ねられ、今立っているのは平成28年(2016)移建の第十次——十代目だ。昭和13年には三重県の史跡に指定されている。

「三重県史跡 日永の追分」の碑文
「三重県史跡 日永の追分」の碑文

鳥居の下の手水所には、丘から引かれた湧き水が流れていて、水を汲みに来る人が入れ替わりやってくる。250年前の商人が建てた鳥居の下で、いまも近所の人が水を汲んでいる。この日常との地続き感が、追分のいちばん良いところだと思う。

地元の底が、まだ見えない

一日歩いて思ったのは、自分の住む土地の「底」の深さだ。

古事記の伝承地と、戦国の山城と、江戸の街道の分岐点が、自転車で回れる範囲に収まっている。そして名前の分からない鳥居のように、資料に載っていない何かが、まだ普通に転がっている。

全国どこでも、たぶん同じだと思う。あなたの地元にも、素通りしてきた「底」があるはずだ。

場所と資料は采女城跡杖衝坂日永の追分の各ページに。同じ四日市の痕跡では、日永の要塞砲泊の「外人墓地」も調べている。

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この記事は、運営者が地元で見つけた痕跡です。 こういう「その土地の人しか知らない場所」「名前の分からない何か」を探しています。ご存じの場所があれば、地図の「この土地の記憶を投稿する」から教えてください。

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参考・出典

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