現地レポ
采女城跡と杖衝坂と、名前の分からない鳥居 — 四日市・采女を歩く
8月11日の夕方に采女を歩いた記録。後藤氏の居城と伝わる山城の采女城跡、ヤマトタケルの伝承が「三重」の名の由来として古事記に記される杖衝坂、伊勢街道の分岐に立つ日永の追分の鳥居、そして資料で名前を確かめられなかった川沿いの小さな鳥居をたどる。
目次(6項目)
8月11日の夕方、采女(うねめ)を歩いてきた。
このあたりにちゃんと来たのは初めてだと思う。采女城跡という山城の跡があると知って、行ってみることにした。
歩いてみると、この一帯に古事記から戦国まで詰まっていた。そして帰り道に、正体の分からない鳥居をひとつ見つけてしまった。
采女城跡 — 入口の時点で、だいぶ雰囲気がある
あすなろう鉄道の内部駅から歩いて15分ほど。内部川と足見川が合流するあたりの川沿いに、登城口の冠木門がぽつんと立っている。川の景色はとても綺麗だ。それだけに、門の奥に続く薄暗い山道との落差がすごい。




正直、少し怖かった。オカルト好きの人なら、この入口はかなり「来る」と思う。
登り始めると、これが結構な急坂だった。ロープが張ってあるので道は分かるが、舗装は一切なく、落ち葉で足場が滑る。息が切れる。サンダルや半ズボンは絶対にやめた方がいい。虫もいるし、夏場は本気の靴と長ズボンが必要だ。


登っていくと「五の郭」「空堀」といった標識が次々に現れる。この城、3本の尾根に9つの郭が並ぶ、かなり大きな山城なのだ。保存会のガイドブックによれば城域は270m四方。後藤氏の居城として約300年続いたと伝わり、織田信長の伊勢侵攻で落城したとされている(落城の年には諸説あって、保存会自身が「通説の永禄11年には矛盾がある」と書いているのが面白い)。


途中に橋もあった。渡ろうとしたら蜘蛛の巣が張っていて、しばらく誰も通っていないらしい。人の気配のない城跡を、標識だけが律儀に案内してくれる。


全部の郭を回るとかなりしんどいので、私は途中まで行って引き返した。それでも、当時ここに何があったのかを想像しながら歩くには十分だった。城好き・歴史好きには本当に良い場所だと思う。ちゃんとした観光地のように整備されているわけではなく、「一応道はある」くらいの感じ——それがかえって、450年前をそのまま残している。




井戸の伝承 — 説明板が「語り」を記録していた
一の郭には深さ6.5mの井戸が残っている。一の郭の近くに立つ説明板に、この井戸の伝承が書かれていた。

落城のとき、城主は燃える城で自刃し、千奈美姫や奥方はこの井戸に身を投げたと伝えられる。そして後世、「夜な夜な女のすすり泣きが聞こえてくる」「馬のいななきや、女人の悲鳴が細く尾を引く」——そんな話が語り継がれている、と説明板自体が記している。

これは保存会が平成26年に立てた公式の説明板だ。つまり「そういう語りが伝わってきた」ということ自体が、この土地の記録として保存されている。伝承は伝承として、事実は事実として書き分けられていて、読みごたえがある。現地に行ったら、ぜひ説明板をじっくり読んでほしい。
杖衝坂 — 「三重」の名前は、ここで生まれたと伝わる
采女城から国道1号の方へ歩くと、読み方の分からない坂に出た。「杖衝坂」。つえつきざか、と読む。

帰って調べて驚いた。この坂、古事記に出てくる。
東征の帰り、傷ついたヤマトタケルがこの坂にさしかかり、疲れ果てて剣を杖の代わりに衝いて登った。だから杖衝坂——古事記の景行天皇条に、そう名付けの由来が書かれている。そして続く三重村の場面で「吾が足は三重の勾のごとくして甚疲れたり」と嘆いた言葉が、「三重」という地名の由来として記されている。
この「三重」はのちの三重郡になり、明治5年、県庁が三重郡四日市に移った際に県名として採用された(三重県の県史編さんのページに経緯がある)。つまり三重県という名前の遠い源流が、この坂の伝承のあたりにあるわけだ。読み方も知らなかった坂が、県名の由来譚の伝承地だった。
江戸時代にはここで松尾芭蕉が馬から落ちている。「歩行(かち)ならば杖衝坂を落馬かな」——季語のない句として有名だそうで、坂には句碑も立つ。東海道の難所ぶりが、神話と俳句の両方に残っている。

急坂の上り口に海上安全・交通安全の金毘羅さんが祀られているのは、ここが難所だった証しのようにも見える。

名前の分からない鳥居 — AIと調べて、それでも分からなかった
采女城跡へ向かう途中の川沿いで、妙なものを見つけた。神社の看板も何もないのに、道路脇に鳥居が立っている。しかも注連縄が掛かっていて、奥には6畳ほどの小さな建物がひとつ。人が住んでいる様子はない。庭木は手入れされ、玉砂利が敷かれ、手水鉢らしき石もある。


なんだろう、これは。気になって、帰ってからChatGPTに写真と座標を渡して聞いてみた。AIの推理はこうだ——鳥居はもともと「ここから先は神域」という境界標識だから、社殿がなくても珍しくない。注連縄が生きているので、今も誰かが祀っている可能性が高い。規模からすると、屋敷神か、地域の数軒で守る小さな社ではないか。
もっともらしい。だが念のため、この推理を資料で確かめてみた。すると面白いことが分かった。AIが挙げてきた具体的な候補(この地区の七社を巡ったという記録や、特定の社名)は、元の資料をたどっても裏付けが取れなかったのだ。地区の公式サイトや保存会のガイドブックにも、この場所の鳥居への言及はない。
つまり現時点で確かなのは、「采女城の登城口から南へ180mの川沿いに、今も手入れされている名前の分からない小さな神域がある」ということだけ。
采女城跡保存会の窓口は内部地区市民センターなので、この地区の人に聞けば一言で答えが出る類の話だと思う。
日永の追分 — 名前は知っていたのに、意識したことがなかった
最後に、帰り道の日永の追分へ寄った。東海道から伊勢街道が分かれる分岐点。名前は知っていたが、ちゃんと見たことがなかった。


現地の碑と説明板を読むと、こういう場所だった。安永3年(1774)、江戸で店を営む伊勢商人・渡辺六兵衛が、「参宮街道の分岐に遥拝鳥居がないのは残念だ」と私財で鳥居を建てた。以来、鳥居は伊勢神宮の式年遷宮にあわせて建て替えが重ねられ、今立っているのは平成28年(2016)移建の第十次——十代目だ。昭和13年には三重県の史跡に指定されている。




鳥居の下の手水所には、丘から引かれた湧き水が流れていて、水を汲みに来る人が入れ替わりやってくる。250年前の商人が建てた鳥居の下で、いまも近所の人が水を汲んでいる。この日常との地続き感が、追分のいちばん良いところだと思う。

この土地の底が、まだ見えない
一日歩いて思ったのは、この土地の「底」の深さだ。
古事記の伝承地と、戦国の山城と、江戸の街道の分岐点が、自転車で回れる範囲に収まっている。そして名前の分からない鳥居のように、資料に載っていない何かが、まだ普通に転がっている。
全国どこでも、たぶん同じだと思う。あなたの地元にも、素通りしてきた「底」があるはずだ。
場所と資料は采女城跡・杖衝坂・日永の追分の各ページに。同じ四日市の痕跡では、日永の要塞砲も調べている。
こういう「その土地の人しか知らない場所」「名前の分からない何か」をご存じでしたら、地図の「この土地の記憶を投稿する」から教えてください。
この土地に、何があったか。→ 痕跡マップで調べる
この記事の場所のそばにある痕跡
- 東海道名残りの一本松(日永の縄手跡)(采女城跡 から 地の痕跡・約2.9km)
采女城跡の周りには、四日市市の痕跡が8件ある。
四日市市の痕跡 8件をひらく →参考・出典
5件出典に基づいて掲載している
- 史跡・遺跡
utsube.jp - 采女城跡ガイドブック
utsube.jp - 県名「三重県」の誕生
bunka.pref.mie.lg.jp - 日永の追分 | 四日市市役所
city.yokkaichi.lg.jp - 采女城跡保存会の現地説明板(2026-08-11 撮影確認)
訂正履歴
公開後に内容を改めた箇所を、日付とともに記録している。
- :写真が既に見せていることを言葉で説明していた一文を削り、同じ日に撮った写真を足した(本文約3,100字・写真13枚と動画2本から、約3,100字・写真28枚と動画2本へ)。由緒・出典・現地で聞いた話・掲示の引用は変えていない。
- :本文の説明の文を17か所、削るか短く改めた。年代・出典・引用の内容は変えていない。
- :井戸の伝承が書かれた説明板の場所を「登城口」としていたが、正しくは一の郭の近くだったので改めた(現地の城跡図と撮影時刻で確認)。
この記事について
この記事の場所や話について、知っていることを教えてください。