東海道名残りの一本松(日永の縄手跡)|何があった場所か

旧東海道沿いに一本だけ残る松。かつてこの辺りから泊の集落までは街道の両側に低い土手が築かれ、その上に松が並んでいた。家が一軒もないこの区間は「縄手(なわて)」と呼ばれ、この松はそこに植えられていたものの生き残りだと、現地の説明板は記す。
時のながれ
- 江戸期(推定) — 東海道の両側に低い土手が築かれ、その上に松が並んで植えられていたと説明板は記す。家のないこの区間は「縄手」と呼ばれた。
- 近代以降 — 松並木は失われ、この一本のみが残ったと説明板は記す。
- 現在 — 旧東海道の道幅は三間(約5.5メートル)のまま変わっていないと説明板は記す。松は歩道際に立ち、説明板が添えられている。
現地の写真

編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 現地の説明板を確認した。むかし、この辺りから泊の集落までは東海道の両側に低い土手が築かれ、その上に大きな松の木が並んで植えられていたこと、その区間には家が一軒もなく「縄手(なわて)」と呼んでいたこと、この松はその縄手に植えられていたものが残ったものであることが記されている。
- 同じ説明板は、縄手の道幅が土手も入れて約五間(9メートル)で、松の木が無くなった現在の道幅とほぼ一致すること、旧東海道そのものの道幅は三間(約5.5メートル)で現在も変わっていないことを記す。
そのため、このページではこうしています
- 説明板は「往時の東海道や日永の歴史の一端を今に伝えるもの」として、この松の維持を求めている。
- 松は歩道際に立ち、すぐ背後は民家である。見学の際は生活道路であることに配慮すること。
- 座標は松と説明板の位置で、写真の位置情報による実測値である。
現地確認: 実施済み
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- この松の樹齢や、植えられた年代を示す記述は説明板になく、確認できていない。
- 説明板の設置者と設置年の記載は、撮影した写真からは読み取れなかった。
参考・出典
- 現地説明板「東海道名残りの一本松」
現地掲示(2026-08-13 撮影確認。設置者名は写真の画角外)
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
近くの痕跡
- 日永の要塞砲(南日永こども広場・通称「大砲公園」)(戦の痕跡・約875m)
- 日永の追分(東海道と伊勢街道の分岐・県史跡)(地の痕跡・約882m)
- 四日市空襲の中心被災地と殉難碑(鵜の森公園)(戦の痕跡・約2.8km)
- 采女城跡(後藤氏の居城と伝わる山城)(戦の痕跡・約2.9km)