歴史の痕跡
終戦の日に埋められた大砲が、36年後に工事で出てきた — 四日市市日永
三重県四日市市日永西。住宅が並ぶ一角に、ブランコと鉄棒のある小さな児童公園がある。名前は南日永こども広場。地元では「大砲公園」と呼ばれている。
なぜかというと、大砲があるからだ。

説明板に書かれていること
砲の隣のフェンスに、白い説明板が下がっている。日永地区連合自治会によるものだ。

書かれている内容を、そのまま整理するとこうなる。
- 1883年(明治16年)、ドイツのクルップ社が製造した要塞砲である
- 1924年(大正13年)頃、地区の名士が展示品として地区へ寄贈し、日永小学校の校門前に展示されていた
- 終戦直後の1945年(昭和20年)頃、地区民によって土中へ埋め込まれた
- 1981年(昭和56年)6月、排水路の改修工事中に掘り出された
- 地区民にとって貴重な資料として、この広場に展示保存することになった
書かれていない一行
読み返して、引っかかるところがある。
なぜ埋めたのかが書かれていない。
大砲を土に埋めるのは、思いつきでできる作業ではない。砲身だけで数メートル、砲架も含めれば相当な重量がある。重機のない終戦直後、地区の人たちが集まって、穴を掘って、これを埋めた。それだけの手間をかけた理由が、説明板には一行もない。
インターネットで調べても出てこなかった。この砲を紹介している個人サイトやブログはいくつかあるが、埋めた理由に触れているものは見つからない。「進駐軍に持っていかれるのを避けるため」「戦争に関わるものを見られたくなかった」といった説明は各所で語られているけれど、出典にたどり着けない。だから、ここには書かない。
分かっているのは、終戦直後に、地区の人たちが総出でこれを埋めたという事実だけだ。そして36年間、誰も掘り返さなかった。
36年後、排水路の工事で
掘り出したのは、考古学の調査ではない。排水路の改修工事だ。
日常の土木工事のスコップが、たまたま鉄の塊に当たった。埋めた人たちは、掘り返される日が来るとは思っていなかったはずだ。少なくとも、自分の目の黒いうちに出てくるとは。

出てきた砲は、そのまま鉄くずにされることも、博物館に運ばれることもなかった。地区の人たちは「貴重な資料として将来へ残したい」と考えて、公園の一角に据えて、フェンスで囲った。埋めたのも地区民、掘り出したのも地区の工事、残すと決めたのも地区の自治会だ。この砲は最初から最後まで、この地区の中だけで扱われている。
説明板の「西ドイツ」
細かい話をひとつ。
説明板には「西ドイツ・エッセン州にあるクルップ社」とある。しかし1883年当時のドイツは帝国であり、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)が成立するのは第二次大戦後だ。エッセンも州ではなく、いまのノルトライン=ヴェストファーレン州にある都市である。
これは間違いというより、この説明板が書かれた1981年の空気だと思う。当時ドイツといえば東西に分かれていて、クルップの本社があるのは西側だった。書いた人にとっては、それが自然な書き方だったのだろう。
砲そのものは140年前の遺物だが、説明板もまた45年前の資料になりつつある。
訪ねるなら
近鉄内部線改め四日市あすなろ鉄道の南日永駅から、歩いて11分ほど(約800メートル)。電車は1時間に2本程度なので、時間は調べてから行くのが良い。公園は24時間開いていて、砲はフェンス越しにいつでも見られる。
住宅街の生活道路沿いなので、車で行く場合は駐車場がないことに注意。近所の方の生活の場でもあるので、静かに見て帰りたい。
場所と資料は日永の要塞砲のページに。同じ四日市市内では泊の「外人墓地」も調べている。
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この記事は、運営者が自宅の近くで見つけた痕跡です。
こういう「その土地の人しか知らない場所」を探しています。説明板にしか書かれていない話、地元では当たり前になっている不思議な物。ご存じの場所があれば、地図の「この土地の記憶を投稿する」から教えてください。確認のうえ、地図に載せます。
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参考・出典
- 現地説明板(日永地区連合自治会)※2026-08-07 撮影確認
- ki43.on.coocan.jp