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現地レポ

羽島用水はどこへ消えたのか — 18.3キロが地下に入り、一区間だけ水が見えている(岐阜県各務原市)

消えたのではなく、平成10〜21年度の事業で18.3キロが管水路になり、地下を流れている。「羽島用水ビオ」で検索すると着く一区間では水が地上に見えるが、それが用水そのものなのか、並んで流れる別の水なのかは、現地の掲示でも公的資料でも決められなかった。

2026-09-12 | 執筆・編集:痕跡マップ編集部
目次(12項目)

9月12日、岐阜県各務原市の羽島用水を見に行った。緑道の下を水が流れていて、その中で一区間だけ地上に出ている場所があるらしい、と読んだからだ。

行く前から、そこが「第二のモネの池」と呼ばれていると聞いてはいた。誰が呼び始めたのかは分からない。各務原市も、羽島用水土地改良区も、岐阜県も、その呼び方は使っていない。

行ってみても、目の前の水が羽島用水そのものなのかどうかは、現地の表示でも公的資料でも決められなかった。

二度、別のところに着いた

朝、地図アプリのピンを頼りに車を走らせた。着いたのは、青い防鳥ネットをかけた果樹園とビニールハウスの並ぶ農道だった。轍と刈り草があるだけで、水路らしいものは見当たらない。

青いネットの畑とビニールハウス。用水を探して最初に着いた場所(2026年9月撮影)
青いネットの畑とビニールハウス。用水を探して最初に着いた場所(2026年9月撮影)

ロケットニュース24は2026年8月8日の記事で「Googleマップで検索するときは『羽島用水』と入力すればOK」と書いている。私はその入力で二度外した。

2キロあまり東へ動いた。木曽川のすぐそばに出て、対岸の丘の上に犬山城が見えた。ここにも用水の入口はない。ただし、この場所には別のものが立っていた。

水の出どころは、木曽川の堰だった

木曽川の対岸、丘の上に犬山城が見える。手前は遊歩道の手すり(2026年9月撮影)
木曽川の対岸、丘の上に犬山城が見える。手前は遊歩道の手すり(2026年9月撮影)

川べりに、農林水産省の大きな白い説明板がある。「犬山頭首工の概要」。

犬山頭首工の概要
-犬山頭首工は濃尾平野に農業用水を送っています-
ライン大橋の下に見える堰を犬山頭首工(いぬやまとうしゅこう)といいます。木曽川(きそがわ)の水位を一定に保ち農業用水を取水(しゅすい)する施設で、取水した水は、宮田用水(みやたようすい)、木津用水(こっつようすい)、羽島用水(はしまようすい)、江南(こうなん)・扶桑畑(ふそうはた)かん用水に供給され、濃尾平野(のうびへいや)にある約1万ヘクタールの農地を潤(うるお)しています。

木曽川とライン大橋の下の犬山頭首工の位置、取水した水が宮田用水・木津用水・羽島用水・江南・扶桑畑かん用水へ供給され、濃尾平野の約1万ヘクタールの農地に届くことを示した図。農林水産省の説明板「犬山頭首工の概要」による。
木曽川とライン大橋の下の犬山頭首工の位置、取水した水が宮田用水・木津用水・羽島用水・江南・扶桑畑かん用水へ供給され、濃尾平野の約1万ヘクタールの農地に届くことを示した図。農林水産省の説明板「犬山頭首工の概要」による。
農林水産省の説明板「犬山頭首工の概要」。受益範囲の地図に羽島用水の名がある(2026年9月撮影)
農林水産省の説明板「犬山頭首工の概要」。受益範囲の地図に羽島用水の名がある(2026年9月撮影)

板は続けてこう書く。

こうした事態を解決するため、農林水産省は、昭和32年より事業費約52億円(現在の価値で約250億円)を投じて、「国営濃尾用水農業水利事業(のうびようすい)」を実施し、昭和37年に犬山頭首工が完成しました。これにより、農家の悲願であった農業用水の安定供給が可能となりました。

「農家の悲願であった」と、国の説明板が書いている。

完成の年については、東海農政局のサイトの中でも書き方が分かれる。犬山頭首工のページは「昭和37年、犬山城下に三用水を合口した犬山頭首工が完成し」と記し、新濃尾地区のページは「昭和38年度完成した犬山頭首工」と記す。

説明板の正面にある犬山頭首工。水門の操作室とライン大橋が川を横切る(2026年9月撮影)
説明板の正面にある犬山頭首工。水門の操作室とライン大橋が川を横切る(2026年9月撮影)

羽島用水の来歴は、羽島用水土地改良区が自分のサイトに書いている。慶長15年(1610年)に木曽川の左岸へ御囲堤が築かれて以後、美濃の側は「木曽川より用水を取水することなど到底考える余裕はなかった」。県営の改良事業で各務原市上中屋地先に取水口ができたのが昭和7年、羽島用水路が完成したのが昭和41年。対岸から水を引けるようになるまでに、300年以上かかっている。

慶長15年(1610年)の御囲堤から、昭和7年の取水口、昭和32年の国営濃尾用水農業水利事業(事業費約52億円)、昭和37年の犬山頭首工完成、昭和41年の羽島用水路完成までの年表。完成年は東海農政局のページに昭和38年度とする記載もある。
慶長15年(1610年)の御囲堤から、昭和7年の取水口、昭和32年の国営濃尾用水農業水利事業(事業費約52億円)、昭和37年の犬山頭首工完成、昭和41年の羽島用水路完成までの年表。完成年は東海農政局のページに昭和38年度とする記載もある。

「羽島用水ビオ」と検索すると着く

車に戻ってネットで検索し直すと、「羽島用水ビオ」という名前が出てきた。そこへ向かって4キロあまり走り、朝の9時半ごろに着いた。

行くつもりの人は、最初からこの名前で検索したほうがいい。大きな看板は出ていないので、地図アプリに入れる名前だけが頼りになる。

砂利の園路の脇を、石で縁取られた流れが蛇行している(2026年9月撮影)
砂利の園路の脇を、石で縁取られた流れが蛇行している(2026年9月撮影)

水底の小石が、そのまま見える。浅瀬が続いたあと、木橋の手前で急に深い淵になる。

浅瀬から淵へ。奥に木橋が架かる(2026年9月撮影)
浅瀬から淵へ。奥に木橋が架かる(2026年9月撮影)

黄色い鯉、紅白の錦鯉、白、黒。数えられるくらいの数が、ゆっくり泳いでいた。

水面に空と木立が映る中を錦鯉が泳ぐ(2026年9月撮影)
水面に空と木立が映る中を錦鯉が泳ぐ(2026年9月撮影)
淵を泳ぐ鯉(2026年9月撮影・6秒・音声なし)

バイクで来ている人が何人かいた。観光地の設えはない。

掲示板に、「羽島用水」の四文字がない

木柵に、黒枠のガラスの掲示板が取り付けてある。中の紙は一枚だけだ。

このせせらぎの水源に「牡蠣の貝殻」2袋を春に投入し、前渡不動の所までの2キロあまりの水の浄化を行っております。
池の鯉たちが悠然泳ぐ姿や底の小石がよく見え、きれいな水がせせらぐ様子を楽しんでください。
尚、ゴミは持ち帰ってくださいね。
ここから約1キロ下流まで両内野せせらぎ会が、年6回草刈を行い、管理しております。
両内野せせらぎ会

木柵のガラス掲示板。管理者として「両内野せせらぎ会」の名が入る(2026年9月撮影)
木柵のガラス掲示板。管理者として「両内野せせらぎ会」の名が入る(2026年9月撮影)

水が澄んでいる理由は、この板に書いてある。春に牡蠣の貝殻を2袋、水源に入れる。下流1キロを年6回草刈りする。

そして、「羽島用水」という語は、この板のどこにも出てこない。管理者として名前が出ているのは、土地改良区でも市でもなく、地元の「両内野せせらぎ会」である。

水は、湧いているのではなかった

流れをさかのぼると、大きな石を組んだ場所に行き着く。石の間から水が落ちてきて、苔とシダが張りついている。ここだけ見れば湧水に見える。

石の下に、暗渠の口が黒く開いていた。上にはコンクリートの擁壁が立ち、配管が横に走り、波板が積んである。

大石の下に暗渠の口が開く。上部はコンクリートの擁壁と配管(2026年9月撮影)
大石の下に暗渠の口が開く。上部はコンクリートの擁壁と配管(2026年9月撮影)

水は、どこかから管で運ばれてきて、ここで地上に出ている。

各務原市の公式サイトには、市民カメラマンの書いた文章が載っている。公開しているのは市の企画広報課だが、文章は市の見解ではない。

木曽川のライン大橋上流で取水された羽島用水は、いったん地下のトンネルに潜り、伊木山の南側を回り込むように、西へ抜けていきます。
トンネルから地上に出ると、その場所は鯉が泳ぐ綺麗な場所になっています。

同じ文章の中に、こうもある。

現在の羽島用水は緑道になっているため、その流れを直接見ることはできませんが、平行して綺麗な小川の水流と、並木道が続いています

前者は「トンネルを出た場所が鯉の泳ぐ場所」と読め、後者は「用水そのものは見られず、並行する小川がある」と読める。目の前の水がどちらなのかは、この文章からは決まらない。現地の掲示にも、水の名前は書かれていない。

羽島用水が地下に入った経緯のほうは、はっきりしている。東海農政局は、水路周辺の都市化・混住化にともなう「家庭雑排水等の流入による水質汚濁及びゴミ投棄による安全・安定通水の障害」を挙げ、新濃尾(一期)で羽島用水路の「延長:18.3km」を「管水路(内径2.2〜1.6m)」にしたと記す。事業期間は平成10年度から平成21年度。土地改良区の側の言い方は「開水路からパイプに変わり家庭からの排水が入らないように工夫しました」である。

上が緑道、下が延長18.3km・内径2.2〜1.6mの管水路という断面の図。地下に入った理由は家庭雑排水等の流入による水質汚濁及びゴミ投棄による安全・安定通水の障害で、事業期間は平成10年度から平成21年度。
上が緑道、下が延長18.3km・内径2.2〜1.6mの管水路という断面の図。地下に入った理由は家庭雑排水等の流入による水質汚濁及びゴミ投棄による安全・安定通水の障害で、事業期間は平成10年度から平成21年度。

受益面積1,311ヘクタール、3市2町、組合員5,799名(土地改良区・令和6年4月1日現在)。水は消えたのではなく、見えなくなった。

その一区間が本体の一部なのか、並んで流れる別の水なのか。決められる表示は、現地にも公的資料にもなかった。

昼から、伊木山に登った

午後、伊木山へ回った。用水が「南側を回り込む」と書かれていた、その山である。

芝生広場に家族連れが何組かいて、登山ルートの案内が出ていた。一部が通行止めだったので、通れる道を探して入った。丸太で組んだ階段が続き、途中から勾配が急になる。手書きの木の道標が刺してあって、「Tから熊野神社へ」「尾根の道へ」とある。柱にも「T」と書いてある。

登山道に刺さった手書きの木製道標(2026年9月撮影)
登山道に刺さった手書きの木製道標(2026年9月撮影)

すぐ着くと思っていたが、着かなかった。まだ夏の日差しで、汗が止まらない。結局この山で往復1時間半ほど歩いた。軽装で入る道ではない。

山頂の林に、名札だけが立っていた

山頂に、各務原市教育委員会の大きな説明板が立っている。

永禄八年(1565)、織田信長は、美濃攻略の第一歩として斎藤龍興方の拠点であった伊木山を攻め取り、砦を築きました。江戸時代に編纂された『美濃雑事記』には、伊木山城について「天守台東西六間(10・9m)、南北四間三尺(8・18m)石垣台形今に存在す」とあり、石垣のある城跡として認識されていたことが分かります。

山頂の説明板「伊木山城」。縄張図と発掘写真が並ぶ(2026年9月撮影)
山頂の説明板「伊木山城」。縄張図と発掘写真が並ぶ(2026年9月撮影)

平成12年と22年の発掘調査についても書かれている。

織豊期以前で石垣に裏込め石が用いられている美濃国内の城は、現在のところ岐阜城(岐阜市)・大桑城(山県市)・伊木山城のみで、先進的な技術が用いられた重要な城であったといえます。

そのうえで、板は最後にこう書く。

伊木山城の石垣は、尾張からの侵攻を防ぐために美濃の斎藤氏が元々築いていたものなのか、信長が伊木山を攻め取った後に美濃攻略の拠点として活用するために築いたものなのかは、分かっていません。

板の脇の林に、金属の小さな標が一本立っていた。「中央曲輪(くるわ)」とだけ書いてある。落葉が積もっているほかに目印はない。石垣は、発掘のあと保存のために埋め戻したと板に記されている。

落葉の林に立つ「中央曲輪」の標(2026年9月撮影)
落葉の林に立つ「中央曲輪」の標(2026年9月撮影)

枝の間から、木曽川と、対岸の工場群と、その先の平野が見えた。

山頂から見下ろす木曽川と濃尾平野(2026年9月撮影)
山頂から見下ろす木曽川と濃尾平野(2026年9月撮影)

山の中の神社に、由緒書きがなかった

尾根を下ると、熊野神社に出た。石の鳥居が立ち、石灯籠の並ぶ参道が奥へ続いている。

鳥居越しに見る参道。石灯籠が並ぶ(2026年9月撮影)
鳥居越しに見る参道。石灯籠が並ぶ(2026年9月撮影)

鳥居の左の柱には「獻主 本籍當地 秘露國在留」と刻まれ、その下に寄進した人の名が続く。秘露はペルーのことだ。ペルーに渡った、この土地に本籍のある人が、山の中の社に鳥居を寄進している。右の柱の年号は風化していて、昭和二年と読めるが冒頭の字は判読できなかった。

社殿は、山の中にしては構えが大きい。

熊野神社の社殿。瓦葺きの拝殿と石の玉垣(2026年9月撮影)
熊野神社の社殿。瓦葺きの拝殿と石の玉垣(2026年9月撮影)

社務所はない。由緒を書いた板もない。祭神も、いつからここにあるのかも、境内では分からなかった。岐阜県神社庁の各務原市の一覧を見ても、この社の郵便番号の項目そのものが無い。

参道の脇の藪に、大きな石碑が半分埋もれていた。正面に「凱旋記念」。揮毫した人の名は、木漏れ日の斑で読み取れなかった。

藪に沈みかけた「凱旋記念」の碑(2026年9月撮影)
藪に沈みかけた「凱旋記念」の碑(2026年9月撮影)

各務原市の配る「伊木山散策Map」には、この熊野神社と、山の中の「本宮跡」が別々に描かれている。市の地図から読めるのは、いまの社殿の場所と、もとの場所が違うらしい、というところまでだ。

なお、熊野神社へは住宅のある西側からも行けるようだ。市の案内では、観音寺の北側と南側に西側駐車場(14台と6台)がある。私は山頂から歩いたが、その道は急で、足場の悪いところもある。

展望台から、木曽川の向こうを見た

山を下りる途中で展望台に出た。木曽川が流れ、犬山橋が架かり、対岸に犬山の市街が広がっている。

展望台から見た木曽川と犬山橋、対岸の犬山市街(2026年9月撮影)
展望台から見た木曽川と犬山橋、対岸の犬山市街(2026年9月撮影)

朝に犬山城を見た岸の、こちら側である。川を挟んで、美濃と尾張が向かい合う。御囲堤が築かれ、堰が据えられ、水を分けたのも、この川だ。

市民カメラマンの文章によれば、羽島用水はこの山の南を回り込んで西へ抜ける。足の下のどこかを通っているはずだが、地上からは見えない。

草に覆われた古墳と、45メートルと40メートル

山を下りて、せせらぎのほうへ戻った。歩いて回れる範囲に、説明板が二枚ある。

一枚はふな塚古墳。畑の脇に、白い鉄板の板が立っている。

各務原市内には、数多くの古墳が残されていました。各務原台地の南部一帯に沢山の古墳が造られました。陵南小学校にある「大牧1号墳」もその内の一つです。一見雑草の生い茂った様に見えるこの「ふな塚古墳」も、7世紀に造られたもので、ほぼ南北方向に位置し、全長45m程です。

説明板「-ふな塚古墳について-」。下に発掘時の写真と出土品(2026年9月撮影)
説明板「-ふな塚古墳について-」。下に発掘時の写真と出土品(2026年9月撮影)

板の言うとおり、目の前の墳丘はクズの蔓にすっぽり覆われていて、板がなければただの藪に見える。

蔓草に覆われたふな塚古墳の墳丘(2026年9月撮影)
蔓草に覆われたふな塚古墳の墳丘(2026年9月撮影)

この古墳は、国・県・市のいずれの指定文化財でもない。市指定文化財の一覧にも、市内の遺跡の一覧にも載っていない。それでいて、各務原市の「かかみがはらの遺跡探訪マップ」には19番として掲載され、文化財カードにもなっている。

そのマップの説明は、目の前の板と数字が違う。

古墳時代後期(6世紀後半)に造られた市内では最も新しい前方後円墳のひとつで、現存する墳長は約40mです。

現地の板は「7世紀」「全長45m程」、市のマップは「6世紀後半」「現存する墳長は約40m」。板の寄贈者は各務原市明るい社会づくり運動協議会で、市の発行物ではない。

ふな塚古墳について、現地の説明板が7世紀・全長45m程・ほぼ南北方向とし、各務原市のかかみがはらの遺跡探訪マップが6世紀後半・現存する墳長約40m・市内では最も新しい前方後円墳のひとつとする、二つの記載を並べた比較表。
ふな塚古墳について、現地の説明板が7世紀・全長45m程・ほぼ南北方向とし、各務原市のかかみがはらの遺跡探訪マップが6世紀後半・現存する墳長約40m・市内では最も新しい前方後円墳のひとつとする、二つの記載を並べた比較表。

飛行機が舟で運ばれてきた湊

古墳から南へ200メートルほどのところに、もう一枚の板が立っている。「小山湊跡」。

説明板「小山湊跡」。左に飛行機を陸揚げした当時の写真(2026年9月撮影)
説明板「小山湊跡」。左に飛行機を陸揚げした当時の写真(2026年9月撮影)

かつて木曽川にはいくつもの渡しがありました。ここはそのうちの一つ「小山の渡し」の船着き場で、対岸は愛知県丹羽郡扶桑町小渕でした。舟を下りた人々を出迎えた馬頭観音像(弘化二年 一八四五)が残っています。ここの渡しは昭和の初めまで続きました。
また、ここは物資の輸送に舟が重用されていた頃には「小山湊」として重要な拠点でした。鵜沼村で栽培された農産物(サツマイモなど)がここから舟積みされ、名古屋や枇杷島などの市場に運ばれました。
さらに時代が進み昭和初期には名古屋(三菱航空機)で製造された飛行機(九二式爆撃機など)が試験飛行のため木曽川を舟に載せられて各務原まで運ばれました。そして、この小山湊から陸上げされ各務原飛行場まで遡ってきました。湊から飛行場までの約四キロを牛馬に引かせ丸一日掛かりでした。左の写真はその時の様子です。

板の左に刷られた写真の出所は「中日新聞社社会部発行『あいちの航空史』より」。板を立てたのは各務原市文化財を守る会で、平成二十二年十二月とある。市の設置ではない。

板の前は草の生えた平地で、奥に生コン工場のプラントが見える。渡しの跡も、湊の跡も、地表には残っていない。板の最後の一行が、先にそう書いている。「今では当時を偲ばせるものは馬頭観音像だけですが、かつては湊に人が集まり活況を呈した場所でした。」

説明板の立つ現場。草地の奥に生コン工場のプラント(2026年9月撮影)
説明板の立つ現場。草地の奥に生コン工場のプラント(2026年9月撮影)

訪ねるなら

せせらぎへ行くなら、Googleマップで「羽島用水ビオ」と検索する。「羽島用水」だけで探すと、私は二度、別の場所に着いた。

せせらぎに駐車場の表示は見当たらなかった。周辺は農地の中の生活道路で、農作業の車が通る。路上には停めないでほしい。

ふな塚古墳と小山湊跡は、せせらぎから数百メートルの範囲にある。歩いて回れる。

伊木の森は開園が9時から17時、月曜休み。入口の看板にはこうある。

伊木の森の入口に立つ開園時間と閉門の看板(2026年9月撮影)
伊木の森の入口に立つ開園時間と閉門の看板(2026年9月撮影)

午後5時で閉門(施錠)します。
(午後5時〜次の開園時間まで車は出られません。)
各務原市

展望台の下にも「駐車場は午後5時に閉鎖いたしますので、必ずこの時刻までに下山して」という看板が立っている。山頂と熊野神社を回ると、私の足では1時間半かかった。各務原市は伊木の森について「住宅団地付近につき、開園時間外の立ち入りはご遠慮ください」とも書いている。

緑道の下を、水が通っている。各務原だけの話ではないはずだ。自分の町に、家の建っていない細長い土地や、やけにまっすぐな遊歩道があったら、その線を地図でたどってみるといい。

この日に歩いた五か所は、位置と出典と年表をそれぞれのスポットページにまとめてある。羽島用水の一区間、ふな塚古墳、小山湊跡、伊木山城跡、伊木山の熊野神社。


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地下に入った羽島用水と、地上に残った一区間の周りには、各務原市の痕跡が5件ある。

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参考・出典

21件出典に基づいて掲載している

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