伊木山城跡(信長が美濃攻略の第一歩に攻め取った山と、埋め戻された石垣)|何があった場所か

木曽川の北岸に立つ標高173mの伊木山は、いま各務原市の「伊木の森」として開かれている。山頂に各務原市教育委員会の説明板が立ち、永禄八年(1565)に織田信長が斎藤龍興方の拠点であったこの山を攻め取り、砦を築いたと記す。江戸時代の『美濃雑事記』には「天守台東西六間(10・9m)、南北四間三尺(8・18m)石垣台形今に存在す」とあり、石垣のある城跡として認識されていた。
平成12年と22年の発掘調査で、六つの曲輪と、北側に広く築かれた石垣が確認された。石垣の裏には排水のための「裏込め石」が詰められており、市教育委員会は、織豊期以前でこれを用いている美濃国内の城は岐阜城・大桑城・伊木山城のみだと記す。ただし同じ板は、その石垣を築いたのが美濃の斎藤氏なのか、山を攻め取った後の信長なのかは分かっていない、とも書く。石垣は保存のため埋め戻され、いま林床にあるのは「中央曲輪」と記された小さな金属標だけである。
時のながれ
- 永禄八年(1565年) — 織田信長が、斎藤龍興方の拠点であった伊木山を攻め取り、砦を築く。
- 天正十二年(1584年) — 小牧・長久手の戦いで池田恒興が戦死し、伊木忠次は次男輝政を補佐すると中腹の説明板は記す。
- 慶長五年(1600年) — 関ヶ原の戦いで、忠次は池田隊の先鋒として新加納の戦いに臨んだと説明板は記す。
- 江戸時代 — 『美濃雑事記』が、天守台の寸法と「石垣台形今に存在す」を記す。
- 平成12年・22年 — 発掘調査で六つの曲輪と裏込め石を用いた石垣を確認。石垣は保存のため埋め戻された。
- 現在 — 山は「伊木の森」として開園し、林床に「中央曲輪」の標が立つ。
現地の写真




近くの痕跡
- 伊木山の熊野神社と、山中に図示された「本宮跡」(ペルー在留者が寄進した鳥居)(地の痕跡・約532m)
- ふな塚古墳(指定を受けないまま市の地図に載る前方後円墳)(地の痕跡・約2.0km)
- 小山湊跡(渡しと舟運の湊、飛行機が陸揚げされた岸)(地の痕跡・約2.0km)
- 地下に入った羽島用水と、地上に残った一区間(両内野のせせらぎ)(水の痕跡・約2.1km)
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 山頂の説明板「伊木山城」(令和5年8月・各務原市教育委員会)の全文を撮影し、永禄八年の信長による攻略、『美濃雑事記』の記述、六つの曲輪、裏込め石を用いた美濃国内の城が岐阜城・大桑城・伊木山城のみであること、石垣は発掘後に埋め戻されていることを確認した。
- 中腹の説明板「伊木山城と伊木清兵衛忠次」(令和5年8月・各務原市教育委員会)の全文を撮影し、伊木忠次が伊木山攻めの功績により「伊木」の名を与えられ、池田恒興・輝政に仕えたことを確認した。
- 林床に「中央曲輪(くるわ)」の金属標だけが立ち、地形以外に城の痕跡が見えないことを現地で確認した。
- 現地の「伊木山案内図」で標高173m・面積69haを確認した。
- 現地の掲示「伊木山風致地区」で、都市計画法上の第一種風致地区(面積約24ha)として建築・伐採等が規制されていることを確認した。
そのため、このページではこうしています
- 石垣を築いたのが斎藤氏か信長かは、説明板自身が「分かっていません」と記している。
- 石垣は埋め戻されていて見えない。いま見えるのは地形と、金属標だけである。
現地確認: 実施済み
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 出土した天目茶碗・すり鉢の現在の保管先を示す資料には到達していない。
- 発掘調査報告書そのものを確認していない。記述はすべて現地説明板による。
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
この痕跡を掘り下げた記事
参考・出典
3件出典に基づいて掲載している
- 現地説明板「伊木山城」
各務原市教育委員会(令和5年8月・2026-09-12 撮影確認) - 現地説明板「伊木山城と伊木清兵衛忠次」
各務原市教育委員会(令和5年8月・2026-09-12 撮影確認) - 施設案内 伊木の森
各務原市(公式)
この場所について
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