小山湊跡(渡しと舟運の湊、飛行機が陸揚げされた岸)|何があった場所か

木曽川べりの草地に、説明板が一枚だけ立っている。各務原市文化財を守る会の板によれば、ここは「小山の渡し」の船着き場で、対岸は愛知県丹羽郡扶桑町小渕、渡しは昭和の初めまで続いた。物資輸送に舟が使われた頃には「小山湊」として鵜沼村の農産物(サツマイモなど)を名古屋や枇杷島の市場へ送り出す拠点だった。
板はもう一つのことを書いている。昭和初期、名古屋の三菱航空機で製造された飛行機(九二式爆撃機など)が試験飛行のために木曽川を舟で運ばれ、この小山湊で陸揚げされて、各務原飛行場まで約4kmを牛馬に引かせて丸一日かけて運ばれた。板の左には、その時の様子を写した写真が刷られている。出所は中日新聞社社会部発行『あいちの航空史』。いまは草の生えた平地の奥に生コン工場のプラントが見えるだけで、渡しの跡も湊の跡も地表には残っていない。
時のながれ
- 弘化二年(1845年) — 説明板によれば、舟を下りた人々を出迎えた馬頭観音像が造立された。
- 江戸〜明治 — 「小山の渡し」の船着き場として使われる。対岸は愛知県丹羽郡扶桑町小渕。鵜沼村の農産物が名古屋・枇杷島の市場へ舟積みされた。
- 昭和初期 — 名古屋の三菱航空機で製造された飛行機(九二式爆撃機など)が木曽川を舟で運ばれ、この湊で陸揚げされて各務原飛行場まで牛馬で運ばれた、と説明板は記す。
- 昭和の初め — 渡しが終わる。
- 現在 — 草地に説明板が一枚立つだけで、地表に遺構は残っていない。
現地の写真


近くの痕跡
- ふな塚古墳(指定を受けないまま市の地図に載る前方後円墳)(地の痕跡・約205m)
- 地下に入った羽島用水と、地上に残った一区間(両内野のせせらぎ)(水の痕跡・約370m)
- 伊木山の熊野神社と、山中に図示された「本宮跡」(ペルー在留者が寄進した鳥居)(地の痕跡・約1.5km)
- 伊木山城跡(信長が美濃攻略の第一歩に攻め取った山と、埋め戻された石垣)(戦の痕跡・約2.0km)
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 現地説明板「小山湊跡」の全文を撮影し、小山の渡し・対岸が扶桑町小渕であること・昭和の初めまで続いたこと・弘化二年(1845)の馬頭観音像が残ること・鵜沼村の農産物の舟積み・九二式爆撃機などの陸揚げと各務原飛行場までの約4kmの牛馬輸送を確認した。
- 板の設置者が「各務原市文化財を守る会」、設置が平成二十二年十二月であることを板面で確認した。市の設置ではない。
- 板の前が草地で、渡し・湊の遺構が地表に残っていないことを現地で確認した。
そのため、このページではこうしています
- この場所の由来を伝えているのは各務原市文化財を守る会が設置した説明板で、市の見解ではない。
- 板の最後の一行が、この場所の現状を先に書いている。「今では当時を偲ばせるものは馬頭観音像だけですが、かつては湊に人が集まり活況を呈した場所でした。」
現地確認: 実施済み
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 各務原市公式の「市内の遺跡」一覧にも「かかみがはらの遺跡探訪マップ」27か所にも、この場所は載っていない。市の一次資料に到達できていない。
- 板が記す馬頭観音像の現在地を、現地で確認していない。
- 九二式爆撃機の舟運・陸揚げを裏づける、説明板以外の一次資料(市史・航空関係資料)に到達できていない。
- 取材前のメモでは「小山遺跡」としていたが、現地の板の表記は「小山湊跡」だった。板面の表記に合わせている。
- 二次情報(個人ブログ)は板の所在地を「各務原市鵜沼前渡東町9-131」と記すが、板面に所在地の表記は無い。
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
この痕跡を掘り下げた記事
参考・出典
2件出典に基づいて掲載している
- 現地説明板「小山湊跡」
各務原市文化財を守る会(平成二十二年十二月設置・2026-09-12 撮影確認) - 市内の遺跡
各務原市(公式・この場所の記載は無い)
この場所について
この場所について、いま知っていることを教えてください。