ふな塚古墳(指定を受けないまま市の地図に載る前方後円墳)|何があった場所か

各務原市鵜沼大伊木町3丁目、畑とビニールハウスにはさまれた一角に、蔓草にすっぽり覆われた高まりがある。現地の説明板は「一見雑草の生い茂った様に見えるこの『ふな塚古墳』も、7世紀に造られたもので、ほぼ南北方向に位置し、全長45m程です」と記し、昭和59年の市教育委員会の発掘調査で杏葉(馬の飾り金具)や須恵器が出土したことを伝える。
この古墳は国・県・市のいずれの指定文化財でもない。市指定文化財の一覧にも、市公式の「市内の遺跡」一覧にも名前が無い。それでいて各務原市の「かかみがはらの遺跡探訪マップ」には19番として掲載され、文化財カードにもなっている。指定を受けないまま市が案内している、という置かれ方そのものが、この古墳の現状である。
時のながれ
- 古墳時代後期 — 前方後円墳が築かれる。築造時期は、現地説明板が7世紀、市の遺跡探訪マップが6世紀後半とし、記載が分かれる。
- 昭和59年(1984年) — 各務原市教育委員会が発掘調査を行う。説明板によれば墳丘は大きく壊されていたが、杏葉・須恵器の壷・瓶・杯などが出土した。
- 現在 — 指定文化財ではないが、市の遺跡探訪マップに19番として載る。墳丘は蔓草に覆われている。
現地の写真


近くの痕跡
- 地下に入った羽島用水と、地上に残った一区間(両内野のせせらぎ)(水の痕跡・約194m)
- 小山湊跡(渡しと舟運の湊、飛行機が陸揚げされた岸)(地の痕跡・約205m)
- 伊木山の熊野神社と、山中に図示された「本宮跡」(ペルー在留者が寄進した鳥居)(地の痕跡・約1.5km)
- 伊木山城跡(信長が美濃攻略の第一歩に攻め取った山と、埋め戻された石垣)(戦の痕跡・約2.0km)
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 現地説明板の全文を撮影し、7世紀・全長45m程・昭和59年の市教育委員会による発掘調査・杏葉と須恵器の出土を確認した。板の寄贈者は「各務原市明るい社会づくり運動協議会」である。
- 墳丘が蔓草に覆われ、説明板が無ければ藪にしか見えない状態であることを現地で確認した。
- 各務原市公式の市指定文化財一覧に、ふな塚古墳が載っていないことを確認した(同じ鵜沼大伊木町の大牧一号古墳・大伊木山西古墳は市指定史跡として載る)。
- 各務原市公式「かかみがはらの遺跡探訪マップ」に19番として掲載されていることを確認した。
そのため、このページではこうしています
- 国・県・市のいずれの指定文化財でもない。それでいて市の遺跡探訪マップには19番として載り、文化財カードにもなっている。
- 全長45mと現存墳長約40mは、推定全長と現存長という別の量を指している可能性がある。どちらかに決める材料は見つけられなかった。
現地確認: 実施済み
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 「各務原市内には、数多くの古墳が残されていました」と板は書くが、市内の古墳の総数を示す公的資料には到達できていない。
- ふな塚古墳=大牧4号墳という別名は、二次情報でしか確認できていない。
- 築造時期と規模の書き方が、現地の板と市の資料で異なる。現地説明板は「7世紀」「全長45m程」と記し、各務原市公式の遺跡探訪マップは「古墳時代後期(6世紀後半)」「現存する墳長は約40m」と記す。板の設置は市ではなく各務原市明るい社会づくり運動協議会である。
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
この痕跡を掘り下げた記事
参考・出典
4件出典に基づいて掲載している
- 現地説明板「-ふな塚古墳について-」
各務原市明るい社会づくり運動協議会 寄贈(2026-09-12 撮影確認) - かかみがはらの遺跡探訪マップ(表)
各務原市(公式) - 各務原文化財カード
各務原市(公式) - 市指定文化財
各務原市(公式)
この場所について
この場所について、いま知っていることを教えてください。