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歴史の痕跡

阪神大水害の痕跡|神戸に残る十六の碑と水位の印を川ごとにたどる

昭和13年(1938)7月の阪神大水害では、3日間で461.8ミリの雨が降り、神戸市内で616人が亡くなった。この水害だけを伝える碑は国土地理院の登録で神戸市内に16基あり、住吉川の落合橋から新湊川の雪御所公園まで、川沿いに残っている。

2026-11-05 | 執筆・編集:痕跡マップ編集部
目次(4項目)

昭和13年(1938)7月3日から5日、神戸に3日間で461.8ミリの雨が降りました。六甲山の各所で土石流が起き、住吉川・石屋川・都賀川・生田川・新湊川があふれ、神戸市内だけで616人が亡くなっています(資料確認済み)。 その記憶は、いまも神戸の川沿いに石碑として残っています。国土地理院が「自然災害伝承碑」として登録しているもののうち、この水害だけを伝える碑が神戸市内に16基あります(資料確認済み。水害と阪神・淡路大震災の両方を伝える甲南大学の「常ニ備ヘヨ」を含めると17基)。

何が起きたか

神戸市の記録では、雨は7月3日に49.6ミリ、4日に141.8ミリ、5日に270.4ミリ、合計461.8ミリでした。1時間で最も多かったのは5日の60.8ミリです(資料確認済み)。気象庁の観測値でも、神戸の7月3日・4日・5日の日降水量は同じ数字です(資料確認済み)。

5日の午前9時から昼にかけて、1時間に30ミリから47ミリの雨が続きました。この時間帯に、六甲山の斜面が各所で崩れ、岩や倒木を含んだ土石流が市街地に流れ込みました。神戸市は「周辺は見渡す限りの泥の海となりました」と記しています。

神戸市の被害数字は次のとおりです(資料確認済み)。

兵庫県の資料では、死者731人(うち神戸市616人)と記されています(資料確認済み)。国土交通省六甲砂防事務所は、2018年の配布資料で、六甲山麓地域全体の死者・行方不明者を679名、流失・倒壊・埋没家屋を4,878戸としています(資料確認済み)。同じ事務所の別のページ「六甲山の災害史」では、死者671名・行方不明者24名です(資料確認済み。このページは今は開けず、2026年7月の保存版で確認)。神戸市と兵庫県の数字の違いは、集計した範囲(神戸市内か、阪神間全体か)によるものです。六甲砂防事務所の2つの数字が違う理由は、資料に書かれていません。

当時の神戸市の人口は約96万人で、神戸市文書館の研究ノートは「全市の48パーセントに及ぶ戸数」が流失または浸水の被害を受けたと記しています(資料確認済み)。

この水害をきっかけに、六甲山系の砂防事業と表六甲の河川改修が国と県によって本格的に始まりました(資料確認済み)。

いま残っている物

以下、碑の名前・所在地・建立年・内容は、国土地理院の自然災害伝承碑データ(2026年10月29日版)によります。碑文の全文ではなく、同データに記された要旨です。

住吉川(東灘区)

住吉川は六甲山の最高峰に源を発し、周りの住宅地より川底が高い天井川です。この水害で最も被害が大きかった川の一つです。

水災記念(落合橋の東) 東灘区住吉台2-40。昭和14年(1939)建立。台座の右わきに、洪水が最も高くなったときの水位が刻まれています(資料確認済み)。国土地理院が公開する写真では、刻字は「水災紀念」と読めます。阪神大水害の水災紀念碑と同じ碑です。神戸学院大学の地理学資料では、海抜約110メートルの地点とされています(資料候補)。

禍福無門(住吉学園内) 東灘区住吉本町3-3-4。昭和14年(1939)建立。住吉川の氾濫で流失・全壊した家屋は約100棟、33名が亡くなり、旧住吉村の7割にあたる2,700戸が被害を受けました。流れてきた約30トンの転石に碑文を刻み、碑の高さ約3メートルが水害時の水位を示しています(資料確認済み)。神戸新聞は、この石が「当時の位置そのまま」で保存されていると伝えています。

常ニ備ヘヨ(甲南小学校内) 東灘区住吉本町1-12-12-1。昭和18年(1943)建立。甲南小学校は校舎のほとんどが崩壊し、再築を記念して当時の流石(流れてきた石)で建てられました(資料確認済み)。学校の敷地内です。

有備無患(野寄公園内) 東灘区西岡本3-15-7。昭和16年(1941)建立。住吉川に面した旧本山村では死者11名、流失・全半壊家屋約700棟、埋没・浸水家屋約1,500棟と記されています。「備え有れば患い無し」の意味です(資料確認済み)。

文豪谷崎文学碑(本山第二小学校内) 東灘区西岡本1-3-1。建立年は不明。谷崎潤一郎が小説「細雪」に描いた水害当日の一節を、流石に刻んだ碑です(資料確認済み)。学校の敷地内です。

天上川・石屋川・高羽川(東灘区・灘区)

水災復興記念(春日神社境内) 東灘区北青木4-20。昭和14年(1939)建立。天上川の氾濫で西青木地区では約500戸が被害を受け、1年後に流れてきた巨石を使って建てられました(資料確認済み)。

水害記念碑(住田橋の東、道路脇) 灘区桜ケ丘町4。昭和14年(1939)建立。石屋川と高羽川の決壊で死者数名、家屋が流失しました。伝承碑データには「現在の石屋川の川底が昔の道路で、この記念碑がある位置は、そこから30段の石段を登ったところにあった」とあり、堆積した土砂の量を伝えています(資料確認済み)。

水害水難者之碑(上高羽橋の西) 灘区一王山町。昭和33年(1958)建立。上高羽地区でも石屋川上流からの土石流で死者数名、家屋が流失しました。伝承碑データは、石屋川に流された人の霊が夢枕に現れたという夫婦が建てた碑だと記しています(建立の経緯は伝承)。

都賀川・六甲川(灘区)

水難慰霊碑(慶光寺境内) 灘区篠原中町1-5。昭和13年(1938)建立。六甲川と仙谷川の合流点を含む篠原地区では43名が亡くなりました。碑は合流点近くに建てられ、翌昭和14年に約500メートル東の寺の境内へ移されました(資料確認済み)。神戸市立中央図書館の「神戸市大水害写真」には、篠原本町・篠原中町・都賀川(阪急線北側)の写真が収められています。

水害記念(若宮八幡宮境内) 灘区新在家南町3丁目。昭和13年(1938)建立。都賀川の氾濫で新在家近辺はほとんど全戸が浸水し、数か月で復興したことを流石の碑に残しています(資料確認済み)。

生田川と三宮(中央区)

生田川は、明治4年(1871)に今のフラワーロードの位置から東へ付け替えられ、昭和7年(1932)に暗渠(地下の水路)になっていました。昭和13年7月、その暗渠の入口が土砂・大木・巨石でふさがれ、あふれた水と土砂は「昔の流れに沿ってフラワーロードを流れ下った」と神戸市は記しています(資料確認済み)。水害後、生田川は開渠(地上の水路)に戻されました。

水害復興記念碑(加納町交差点の南西) 中央区加納町3丁目。昭和15年(1940)頃の建立。布引渓谷や桜谷からの濁流が加納町に襲来し、死者12名、家屋被害220戸余りと記されています。2007年3月に北東200メートルの一宮交番のそばから移設されました(資料確認済み)。

神戸市文書館の研究ノートによれば、加納町交差点で土砂に埋もれ流木で前面が壊れた市電の車両は、複数の写真と絵葉書に写された象徴的な被写体でした。また省線(現在のJR)三ノ宮駅の高架から、そごう百貨店(現在の神戸阪急)前にあふれた土砂を写した写真が残っています(資料確認済み)。神戸市のページには「濁流と流木が押し寄せる三ノ宮駅付近」「三宮交差点の濁流」「土砂に埋まった阪急三宮駅」「濁流に洗われる生田神社の鳥居付近」などの写真が掲載されています。

生田川の付け替えと昭和13年の水の道を順に並べた図。明治4年(1871)まで今のフラワーロードの位置が川で、明治4年に東へ付け替えられ、昭和7年(1932)に暗渠(地下の水路)になった。昭和13年7月、暗渠の入口がふさがれ、水と土砂が昔の流れに沿ってフラワーロードを流れ下った。水害後、生田川は開渠(地上の水路)に戻された。
生田川の付け替えと昭和13年の水の道を順に並べた図。明治4年(1871)まで今のフラワーロードの位置が川で、明治4年に東へ付け替えられ、昭和7年(1932)に暗渠(地下の水路)になった。昭和13年7月、暗渠の入口がふさがれ、水と土砂が昔の流れに沿ってフラワーロードを流れ下った。水害後、生田川は開渠(地上の水路)に戻された。

旧湊川・新湊川・宇治川(兵庫区・長田区)

かつての湊川は川底が平地より6メートルも高い天井川で、明治34年(1901)に会下山を掘り抜く湊川隧道(長さ670メートル)が完成して流路が西へ付け替えられました(資料確認済み)。昭和13年の水害では、その上流にあたる天王谷川・石井川の合流点付近に土砂が集中しました。

慰霊塔(雪御所公園内) 兵庫区雪御所町。昭和16年(1941)建立。「特に被害が甚大であった石井川と天王谷川の合流するこの場所」に、再び災害を起こさないという誓いを伝えるために建てられました(資料確認済み)。

水害復興記念(天王川公園内) 兵庫区下三条町。昭和13年(1938)建立。荒田町では遭難者125名、浸水家屋約1,800戸と記されています(資料確認済み)。当時の絵葉書「新湊川の濁流」は、天王川の氾濫で水没した湊区下三条町を写したものでした。

流石之碑(平野浄水場進入道路脇) 兵庫区楠谷町。昭和14年(1939)建立。宇治川・楠谷川の氾濫で流失家屋約150戸、死者10名余り。復興に皆で協力したことから、流石を「さすが」と読んでもよい、と刻まれています(資料確認済み)。

嗚呼福田君父子之碑(桧川町公園) 長田区檜川町1丁目、苅藻川沿い。昭和13年(1938)建立。新湊川支流の苅藻川の増水時に、住民の救護にあたった林田警察署の巡査部長とその息子が倒壊家屋に巻き込まれて亡くなった出来事を伝えています(資料確認済み)。

裏六甲(北区)

水難碑(唐櫃・有馬橋の西) 北区有野町唐櫃、県道神戸三田線脇。昭和15年(1940)建立。旧有野村の被害は死者4名、流失家屋14戸、全半壊34戸、埋没した土地34ヘクタールと記されています(資料確認済み)。

阪神大水害を伝える神戸市内の16基の碑の位置を、川ごとの数とともに示した図。住吉川5基、天上川・石屋川・高羽川3基、都賀川・六甲川2基、生田川1基、新湊川・宇治川・苅藻川4基、裏六甲(北区)1基。
阪神大水害を伝える神戸市内の16基の碑の位置を、川ごとの数とともに示した図。住吉川5基、天上川・石屋川・高羽川3基、都賀川・六甲川2基、生田川1基、新湊川・宇治川・苅藻川4基、裏六甲(北区)1基。

地図でたどる順

距離は碑の登録座標からの直線距離の目安です(駅の位置は筆者の推定)。学校・神社・寺の敷地内の碑は、公開状況を各施設に確認してください。

  1. 東灘区・住吉川沿い(北から南へ) 阪急御影駅から北東へ約0.9キロで落合橋の「水災記念」。住吉川沿いに南へ約0.9キロで住吉学園の「禍福無門」(阪急岡本駅・JR住吉駅から約0.7キロ)。さらに南へ約0.4キロで甲南小学校の「常ニ備ヘヨ」(JR摂津本山駅から約0.4キロ)。阪急岡本駅のすぐ南に本山第二小学校の「文豪谷崎文学碑」(約0.1キロ)、野寄公園の「有備無患」(約0.4キロ)。
  2. 東灘区・天上川 阪神青木駅から北へ約0.5キロ、春日神社の「水災復興記念」。
  3. 灘区・石屋川 阪急六甲駅から東へ約0.7キロ、住田橋東の「水害記念碑」。そこから北へ約0.3キロ、上高羽橋西の「水害水難者之碑」。
  4. 灘区・都賀川 阪急六甲駅から約0.3キロ、慶光寺の「水難慰霊碑」。都賀川を下って阪神新在家駅のすぐ北(約0.2キロ)、若宮八幡宮の「水害記念」。
  5. 中央区・生田川と三宮 JR三ノ宮駅から北へ約0.4キロ、加納町交差点南西の「水害復興記念碑」。フラワーロードを南へ歩くと、明治4年まで生田川だった道筋です。
  6. 兵庫区・新湊川上流 地下鉄大倉山駅から北西へ約0.8キロ、天王川公園の「水害復興記念」と、約0.1キロ離れた雪御所公園の「慰霊塔」。さらに西へ約1キロ、楠谷町の「流石之碑」。
  7. 長田区・苅藻川 神戸電鉄丸山駅から約0.7キロ、桧川町公園の「嗚呼福田君父子之碑」。
  8. 北区・唐櫃 神戸電鉄唐櫃台駅から約0.5キロ、有馬橋西の「水難碑」。

確認できなかったこと

この記事の場所のそばにある痕跡

地図をひらくと、阪神大水害の水災紀念碑の周りの痕跡が出る。

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参考・出典

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