石屋川の天井川と旧石屋川隧道跡|何があった場所か
石屋川は、六甲山系坊主山に源を発して大阪湾へ注ぐ、延長約2.68キロメートルの二級河川である。兵庫県の石屋川水系河川整備基本方針(令和5年3月)は、この川が神戸市東灘区の西側および灘区の東側を流れると記す。国土交通省近畿地方整備局六甲砂防事務所の教材は、六甲山麓では住吉川をはじめ芦屋川や石屋川などが、川底が周辺の平地より高い天井川となっていると説明する。同事務所は、土砂が大量に流れ出る川では川底に土砂がたまり、人々が堤防を高くすることを繰り返すうちに川底が周りの民家より高くなった、と成り立ちを述べる。兵庫県は、六甲山地が主として花崗岩から成り、激しい隆起と脆弱な花崗岩の厚い風化層がもたらす大量の土砂礫によって扇状地が形成されたと記す。この地形が、鉄道に変わった選択をさせた。兵庫県は、1874年(明治7年)に神戸・大阪間へ開通した鉄道の敷設工事の際、天井川となっていた芦屋川・住吉川・石屋川については河道の下にトンネルを掘って線路が敷かれたと記し、そのなかで石屋川隧道は最初に完成したため「日本で最初の鉄道トンネル」となったとする。六甲砂防事務所の教材は、当時の蒸気機関車では川を越える坂を登る馬力が足りなかったため、橋を架けるのではなくトンネルを掘ることになったと理由を説明し、工事は英国人技師が指導したと記す。ただし「日本初」の語は、資料によって指すものが違う。土木学会は、西洋の近代技術で掘られた日本で最初のトンネルが石屋川トンネルであるとし、長さを61メートルとする。一方、大津市歴史博物館は、滋賀県の旧逢坂山トンネルについて、当時の鉄道敷設は英国人が指導していたが、このトンネルは日本人のみの手で施工された日本最初のものであると説明する。競い合う二説ではなく、数えている対象が異なる。工法も、山を掘り抜いたものではない。新聞の報道は、川の流れを仮の水路に移し、川底を掘り下げ、レンガを積み重ねてトンネルを造りながら川を元に戻す方法が採られたと伝える。隧道そのものは、いま残っていない。兵庫県は、石屋川隧道が1894年(明治27年)以降の複線化工事や線路の高架化によって姿を消したと記し、六甲砂防事務所の教材も、現在は高架となり消滅していると述べる。兵庫県は、現在はJR東海道本線と石屋川が交わる東側に記念碑が残されているとする。新聞の報道は、石屋川公園の一角に、隧道の歴史と建設当時の工事写真を掲げた掲示板があると伝えている。遺構を見る場所ではなく、記録を読む場所である。
時のながれ
- 江戸期 — 兵庫県は、石屋川では川沿いに御影石を加工する石材屋が軒を連ねたことから石屋川の名がついたともいわれる、と記す。
- 明治3年(1870) — 土木学会は、西洋の近代技術で掘られた日本で最初のトンネルが、明治3年に着工した大阪と神戸の間の鉄道の川底をくぐる石屋川トンネルであるとし、長さを61メートルとする。
- 明治4年(1871) — 記念碑の年表および複数の報道は、イギリス人技術者の設計・監督により明治4年7月に隧道が完成したと記す。
- 明治7年(1874) — 兵庫県は、神戸・大阪間に鉄道が開通し、天井川となっていた芦屋川・住吉川・石屋川については河道の下にトンネルを掘って線路が敷かれたと記す。
- 明治27年(1894) — 兵庫県は、石屋川隧道がこの年以降の複線化工事や線路の高架化によって姿を消したと記す。
- 大正8年(1919) — 記念碑の年表は、複々線工事のためトンネルが解体され、のちに跨線水路橋の下に線路が敷かれたと記す。
- 昭和51年(1976) — 記念碑の年表は、高架工事により線路が石屋川を跨ぐ形となって現在に至ると記す。国土交通省六甲砂防事務所の教材も、現在は高架となり消滅していると述べる。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 兵庫県の石屋川水系河川整備基本方針(令和5年3月)は、石屋川が神戸市東灘区の西側および灘区の東側を流れる法定河川延長2.682キロメートル、流域面積2.87平方キロメートルの二級河川であると記す。
- 国土交通省近畿地方整備局六甲砂防事務所の教材は、六甲山麓の河川では住吉川をはじめ芦屋川や石屋川などが、川底が周辺の平地より高い天井川となっていると説明する。
- 同教材は、堤防を高くすることを繰り返すうちに川底が周りの民家より高くなった、という天井川の成り立ちを図解つきで述べる。
- 同教材は、当時の蒸気機関車では天井川を越える坂を登る馬力が足りなかったため橋ではなくトンネルを掘ることになったと記し、工事は英国人技師が指導したとする。
- 兵庫県は、芦屋川・住吉川・石屋川の3河川のうち石屋川隧道が最初に完成したため「日本で最初の鉄道トンネル」となったと記す。
- 土木学会は、西洋の近代技術で掘られた日本で最初のトンネルが明治3年着工の石屋川トンネルであるとし、長さを61メートルとする。
- 大津市歴史博物館は、滋賀県の旧逢坂山トンネルについて、当時の鉄道敷設は英国人が指導していたが、このトンネルは日本人のみの手で施工された日本最初のものとして鉄道記念物になっていると説明する。
- 兵庫県は、石屋川隧道が1894年以降の複線化工事や線路の高架化によって姿を消し、現在はJR東海道本線と石屋川が交わる東側に記念碑が残されていると記す。新聞の報道は、石屋川公園の一角に隧道の歴史と建設当時の工事写真を掲げた掲示板があると伝えている。
そのため、このページではこうしています
- 「日本初」は資料によって指す内容が異なるため、どの資料がどう述べているかを並べて示し、一つの言い方に寄せなかった。
- 隧道は現存しないため、遺構を見る場所ではなく記録を読む場所として紹介した。
- 見られるものの案内は公園に置かれた掲示板までとした。
- 水害そのものではなく、天井川という地形と、その下をくぐった鉄道の関係に主題を絞った。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 竣工を明治4年7月とする点は記念碑の年表と複数の報道が一致するが、兵庫県および国土交通省の資料には竣工年の記載を見いだせなかった。
- 着工日について、記念碑の年表は明治3年10月22日とし、別の資料は同年10月24日とする。どちらが正しいかまでは確かめられなかった。
- 隧道の構造物の一部が地中に残っているかどうかを述べた資料は見つからなかった。
- 記念碑と掲示板がいつ、どの主体によって設置されたかを記した資料は見つからなかった。
- 姿を消した時期について、兵庫県は1894年以降の複線化工事や高架化とまとめる一方、記念碑の年表は大正8年に解体して跨線水路橋とし、昭和51年10月の高架工事で現在の形になったと段階を分けて記す。両方を併記した。
- 隧道の長さについて、記念碑の説明文は200フィートを64メートルと書き、同じ記念碑の年表と土木学会は61メートルとする。
- 「日本初」の意味が資料ごとに異なる。兵庫県と記念碑は石屋川隧道を日本で最初の鉄道トンネルとし、土木学会は西洋の近代技術で掘られた日本で最初のトンネルとし、大津市歴史博物館は旧逢坂山トンネルを日本人のみの手で施工された日本最初のものとする。
参考・出典
- 石屋川水系河川整備基本方針(令和5年3月)
兵庫県 - 住吉川物語(住吉川は天井川なんだ/鉄道が川の下を走っているんだ)
国土交通省近畿地方整備局 六甲砂防事務所 - ものしり博士のドボク教室 トンネルはいつごろからあるの
公益社団法人 土木学会 - 旧逢坂山トンネル(大津の歴史事典)
大津市歴史博物館 - 灘区 区の概要(東はおおよそ石屋川で東灘区に接する)
神戸市 - 石屋川公園(東灘区の公園一覧)
公益財団法人 神戸市公園緑地協会 - 神戸(表六甲河川)地域総合治水推進計画
兵庫県 - きょうは何の碑 川底を駆けた文明開化 日本初の鉄道トンネル(2020年10月30日 大阪夕刊)
毎日新聞 - 六甲山の土砂災害と対策 災害要因(風化した崩れやすい花崗岩)
国土交通省近畿地方整備局 六甲砂防事務所
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
近くの痕跡
- 阪神大水害の水災紀念碑(住吉川・落合橋)(水の痕跡・約1.9km)
- 旧生田川の付け替え跡(フラワーロードと加納町の由来)(水の痕跡・約5.5km)
- 三宮神社と生田裔神八社(「三宮」という地名の由来と伝わる社)(地の痕跡・約6.1km)
- 神戸外国人居留地跡(旧居留地煉瓦造下水道と十五番館)(地の痕跡・約6.2km)