三宮神社と生田裔神八社(「三宮」という地名の由来と伝わる社)|何があった場所か
神戸の中心地「三宮」の名は、中央区三宮町に鎮まる三宮神社にちなむと、神戸市中央区がまとめた町名の由来の資料は記す。同社は、生田神社の氏子地に一宮から八宮まで番号順に点在する生田裔神八社の一つで、祭神は湍津姫命。創建の年代は不明とされる。八つの社名は今も伝わるが、六宮神社は八宮神社の社殿に合祀されており、社地としては七か所である。番号は神功皇后が巡拝した順とする社伝が伝わり、節分に八社を巡る風習も続く。境内の南の隅には、慶応4年(1868年)に社前で起きた神戸事件を伝える石碑が建つ。
時のながれ
- 伝承(年代不詳) — 神功皇后が三韓からの帰途に生田神社周辺の社を巡拝し、その順に一宮から八宮の番号がついたと、七宮神社の公式サイトは伝える。
- 享保17年(1732) — この年の銘をもつ石鳥居と手水鉢が三宮神社に伝わると、兵庫県神社庁の記録は記す。創祀の年代そのものは極め難いとされる。
- 寛延元年(1748) — 尼崎藩主の奉納と伝えられる石灯籠が、この年の銘をもって現存すると同じ記録は記す。
- 慶応3年(1867) — 社前の神戸の浦が開港し、南側一帯に外国人居留地の設営が始まる。工事のため社の周りの丘が削られ、以前の景観が失われたと三宮神社の略史は記す。
- 慶応4年(1868) — 西宮警備へ向かう備前藩の行列と外国人が社前で衝突し、のちに神戸事件と呼ばれる交戦に発展したと、兵庫県の歴史資料は記す。
- 明治42年(1909) — 六宮神社が八宮神社の社殿に合祀され、一つの本殿を二部屋に分けて南北に並ぶ形になったと、兵庫県神社庁の記録は記す。
- 昭和9年(1934) — 鉄道の高架化で三ノ宮駅が東へ移り、本来の三宮と駅の位置がずれたと、神戸市中央区の資料は説明する。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 神戸市中央区が公開する中央区の町名の由来一覧は、三宮神社を旧神戸村の氏神、祭神を湍津姫命とし、生田裔神八社のうちの一つであるが創建年代は不明と記す。そのうえで、三宮という地名はこの神社があることに由来すると記し、所在地を神戸市中央区三宮町2丁目4-4とする。
- 同じ資料は、三宮神社の境内南西隅に史蹟 神戸事件発生地の碑が建つと記し、1868年1月11日に西宮警備へ向かう備前藩の行列が神社付近で外国人と衝突し、外国兵が上陸して交戦状態になった経緯を説明する。備前藩家老の日置帯刀が謹慎、備前藩士の滝善三郎正信が兵庫の永福寺で切腹して落着したとする。
- 三宮神社の公式サイトは、鎮座地を兵庫県神戸市中央区三宮町2-4-4、祭神を天照大御神の御子である湍津姫命とし、一宮から八宮までの神社の中の三柱目にあたり、周辺の三宮という地名の由来にもなっていると記す。境内南隅の石標については、神戸市によって建てられたものと記している。
- 同じサイトの略史は、創祀の年代は極め難く古記録も欠けているとしつつ、享保17年(1732年)銘の手水鉢と寛延元年(1748年)銘の石灯籠が伝わること、この地が以前は尼崎藩領で藩主の信仰を受けたこと、明治維新ごろまで社は西国街道沿いの森として遠方からの目標であったこと、その後に三宮の名が駅名や官公署・会社・商店の名にも用いられて広く知られるようになったことを記す。
- 兵庫県神社庁の神社検索は、三宮神社の所在地を神戸市中央区三宮町2-4-4、主祭神を湍津姫命、例祭日を5月12日とする。境内の大砲については、神戸事件の際に備前藩兵が用いた三門とほぼ同時代のものと記しており、現物そのものとは述べていない。
- 兵庫県神社庁の八宮神社の頁は、当社が一宮から八宮のうち六宮神社と八宮神社を合祀した社であり、両社は一つの本殿を二部屋に分け、北側が六宮神社、南側が八宮神社として鎮座すると記す。所在地は神戸市中央区楠町3-4-13。
- 七宮神社の公式サイトは、一宮は北野村、二宮は生田村、三宮は神戸村、四宮は花隈村、五宮は奥平野村、六宮は坂本村、七宮は兵庫津北浜、八宮は坂本村の鎮守であったとし、番号は神功皇后が巡拝した順につけられたと記す。江戸時代頃は節分に八社を巡拝したとも記す。神戸市交通局の市バス八社巡りの頁も、一宮から八宮の神社が港神戸の守護神として信仰され、節分の日に八社を巡拝して厄を払う風習が古来よりあると記す。
- 神戸市中央区の中央区の歴史の豆知識は、本来の三宮という地名は三宮神社のある周辺、つまり現在の元町駅南一帯を指したと記し、1934年(昭和9年)の高架化で三ノ宮駅が東へ移った結果、歴史的な三宮と鉄道の駅の位置がずれたと説明する。兵庫県の歴史資料の頁も、慶応4年(1868年)1月に備前藩の兵隊が神戸の三宮神社前を行進していたとき外国の水兵が隊列を横切ったことから発砲があり、瀧善三郎の切腹で落着したと記す。
そのため、このページではこうしています
- 座標は、オープンストリートマップの検索機能で三宮神社を引き、神戸市中央区三宮町二丁目にある社殿の区画として返された緯度経度を採用した。
- 神戸市東灘区御影中町にも同名の神社があるため、住所の町名を照合して取り違えのないようにした。
- 三宮の語は駅名や商業地の呼び名としても広く使われるが、ここでは神戸市中央区三宮町2丁目4-4に鎮座する社そのものを地点としている。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 生田神社の公式サイトの由緒と境内紹介の頁には、裔神八社に関する記述を見つけられなかった。生田神社自身が八社の由緒や呼称をどう説明しているかは確認できなかった。裔神八社という呼称を用いているのは、神戸市中央区の資料、七宮神社の公式サイト、兵庫県神社庁などの側である。
- 境内の碑の刻字は、神戸市中央区の資料が史蹟 神戸事件発生地、三宮神社の公式サイトと兵庫県神社庁が史蹟神戸事件発生の地とし、どちらが実際の刻字かは確認できなかった。設置者を神戸市とするのは神社側の記述であり、神戸市側の資料に設置者の記載は見つけられなかった。
- 一宮から八宮という番号のつけ方の起源は、神功皇后の巡拝順という社伝として語られており、それを裏づける古い記録は確認できなかった。神戸市中央区の資料も一宮について生田裔神八社のうちの一宮といわれていると記す言い方をとる。三宮神社の創建年代も、神社自身と神戸市の資料がともに不明としている。
- 国立国会図書館のレファレンス協同データベースには、三宮の地名の由来を扱った事例を見つけられなかった。辞典に収められた三宮の項目のうち日本歴史地名大系のものは石川県の白山に関する記述であり、神戸の三宮を扱ってはいない。
- 八宮神社が現在地へ移った時期について、兵庫県神社庁の頁は明治20年に神戸市最初の市役所が境内地に新築されたためとするのに対し、七宮神社の公式サイトは明治42年に旧神戸市役所が新築されたためとしており、年代が食い違う。
- 六宮神社が八宮神社に合祀された時期について、兵庫県神社庁と七宮神社の公式サイトはともに明治42年とするが、神戸観光局の記事は明治時代はじめの区画整理によるとしており、説明が一致しない。
- 三ノ宮駅が現在地へ移った年について、神戸市中央区の資料は1934年(昭和9年)の高架化に伴う移転とするのに対し、辞典類は1931年の高架化を契機とするものと1931年の設置とするものがある。
参考・出典
- 中央区の町名の由来一覧(三宮神社・三宮町の由来)
神戸市中央区 - 中央区の歴史の豆知識(三宮はもともと今の元町あたりをさす地名だった)
神戸市中央区 - 中央区の歴史解説
神戸市中央区 - 神戸・三宮神社[公式]/神社について(三宮神社略史)
三宮神社 - 三宮神社|兵庫県神社庁 神社検索
兵庫県神社庁 - 八宮神社|兵庫県神社庁 神社検索(六宮神社との合祀)
兵庫県神社庁 - 神戸八社巡り(一宮から八宮の御祭神と旧鎮守村)
七宮神社 - 市バス 八社巡り
神戸市交通局 - 神戸三宮備前兵事件
兵庫県(総務部法務文書課・歴史資料) - 三宮(デジタル大辞泉・日本大百科全書・ブリタニカ国際大百科事典ほか)
コトバンク
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
近くの痕跡
- 神戸外国人居留地跡(旧居留地煉瓦造下水道と十五番館)(地の痕跡・約294m)
- 旧生田川の付け替え跡(フラワーロードと加納町の由来)(水の痕跡・約1.0km)
- 湊川の戦いの古戦場と楠木正成墓碑(湊川神社)(戦の痕跡・約1.6km)
- 神戸大空襲の被災地と「神戸空襲を忘れない いのちと平和の碑」(大倉山公園)(戦の痕跡・約1.7km)