湊川の戦いの古戦場と楠木正成墓碑(湊川神社)|何があった場所か
兵庫県立考古博物館が公開する指定文化財の一覧は、国指定史跡の欄に楠木正成墓碑を掲げ、指定年月日を昭和26年6月9日、指定面積を2,568.56平方メートル、所在地を神戸市中央区多聞通3-1と記載する。湊川神社の境内にあたる。日本大百科全書は、湊川の戦いを1336年(延元1・建武3)5月25日の摂津国湊川における足利尊氏・直義軍と楠木正成・新田義貞軍の戦いとし、湊川を背にして会下山に陣する正成軍と和田岬に陣する新田軍を割るように、尊氏軍の先発である細川軍が和田岬に上陸して戦いが始まったと説明する。同じ書は、3時間16回にわたる戦いの末に正成が湊川の北の在家で弟とともに自害したと記す。戦いの舞台となった湊川そのものは、明治34年(1901)に完成した湊川隧道によって流路が付け替えられており、当時の地形はそのまま残ってはいない。いま境内に立つ墓碑は、戦いから356年のちのものである。湊川神社は、大日本史を編纂した徳川光圀が元禄5年(1692)に佐々木宗淳を遣わし、建碑費183両余をかけて墓碑を建立したと説明する。四角の台座の上に神獣の形に刻んだ亀趺を据え、その上に碑石を担がせる亀趺碑という様式で、碑石には正成の故郷である大阪の青和泉石、亀趺には京都の白川石、台座には神戸の御影石と、ゆかりの地の石が用いられていると同じ社は記す。社そのものの創建は明治5年(1872)である。
時のながれ
- 延元元年・建武3年(1336) — 日本大百科全書は、5月25日に摂津国湊川で足利尊氏・直義軍と楠木正成・新田義貞軍が戦い、正成が湊川の北の在家で弟とともに自害したと記す。
- 正保3年(1646)ごろ — 湊川神社は、尼崎藩主の青山幸利によって五輪の供養塔が建てられたと説明する。
- 元禄5年(1692) — 同じ社は、徳川光圀が佐々木宗淳を遣わし、建碑費183両余をかけて墓碑を建立したと記す。
- 明治5年(1872) — 同じ社は、楠木正成を祀る社がこの年に創建されたと記す。
- 明治34年(1901) — 神戸市は、湊川隧道の完成にともなって旧湊川の流路が付け替えられたと説明する。
- 昭和26年(1951) — 兵庫県立考古博物館が公開する一覧は、6月9日に楠木正成墓碑が国の史跡に指定されたと記載する。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 兵庫県立考古博物館が公開する兵庫県内の指定文化財一覧は、国指定史跡の欄に楠木正成墓碑を掲げ、指定年月日を昭和26年6月9日、指定面積を2,568.56平方メートル、所在地を神戸市中央区多聞通3-1と記載する。
- 日本大百科全書は、湊川の戦いを1336年(延元1・建武3)5月25日の摂津国湊川における足利尊氏・直義軍と楠木正成・新田義貞軍の戦いとし、湊川を背に会下山に陣する正成軍と和田岬に陣する新田軍を割るように、尊氏軍の先発である細川軍が和田岬に上陸して5月25日に戦いが始まったと記す。
- 同じ書は、正成が5月22日に弟の正季らとともに西下し、子息の正行を桜井駅で河内に帰して腹心の部下700騎ほどで決死隊を編成したとし、3時間16回にわたる戦いの末に残兵73騎となり、正成が湊川の北の在家に入って弟とともに自害したと述べる。
- 湊川神社は、湊川の戦いののち地元の人々に祀られていた墓が初めに明らかになったのは豊臣秀吉の太閤検地であったとし、その後に尼崎藩主の青山幸利によって五輪の供養塔が建てられたと説明する。
- 同じ社は、大日本史を編纂した徳川光圀が元禄5年(1692)に佐々木宗淳を遣わして建碑費183両余の墓碑を建立したとし、「嗚呼忠臣楠子之墓」の8字は光圀が自ら筆をとったものと記す。
- 同じ社は、墓碑の様式を亀趺碑と呼び、四角の台座の上に神獣の形に刻んだ亀趺が乗り、その甲羅の上に碑石を担ぐように三つの部分から成り立っているとし、碑石に大阪の青和泉石、亀趺に京都の白川石、台座に神戸の御影石と、ゆかりの地の石を用いていると説明する。
- 同じ社は、殉節の地について、楠木一族が最期を迎えた湊川の北方の民家がその奥の注連縄が張られたあたりであったと伝えられていると述べる。場所の説明は日本大百科全書と重なる。
- 神戸市は、湊川隧道が明治34年(1901)に完成して会下山を貫き新湊川の水を導くとし、旧湊川がおおむね現在の湊町線を経て大阪湾へ注いでいたと説明する。
そのため、このページではこうしています
- 戦いの場は湊川・会下山・和田岬にまたがって一点に定まらないため、地図の位置は指定の所在地である神戸市中央区多聞通3-1の境内に置いた。
- 最期の地点については、伝えられているとする湊川神社の言い方をそのまま残した。
- 国の指定の内容は、兵庫県立考古博物館が公開する一覧で確かめた。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 湊川の戦いの戦域がどこからどこまで及ぶのかを示す公的な範囲図は見当たらなかった。
- 国の指定の範囲に境内北西の殉節地が含まれるかどうかは確かめられなかった。指定面積は2,568.56平方メートルで、境内の全域ではない。
- 正成らが最期を迎えた正確な地点は、湊川神社も伝えられていると述べるにとどまり、地点を確定できる資料には到達できなかった。
- 最期にいた人数について、日本大百科全書は残兵73騎とし、湊川神社は73人の一族郎党とする。数は重なるが、指しているものが残った兵か一族郎党かで説明が異なる。
参考・出典
- 兵庫県内の指定文化財一覧(国指定史跡ほか)
兵庫県立考古博物館 - 史蹟 楠木正成公殉節地と御墓所
湊川神社 - 湊川神社の由緒
湊川神社 - 湊川神社の創建
湊川神社 - 名所めぐり 湊川神社(デジタルミュージアム)
兵庫県立歴史博物館 - 湊川の戦い(日本大百科全書ほか)
コトバンク(小学館ほか) - 湊川隧道(会下山トンネル)
神戸市 - 資料案内ブックリスト郷土編No.16 楠木正成と楠公墓碑
神戸市立中央図書館
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
近くの痕跡
- 神戸大空襲の被災地と「神戸空襲を忘れない いのちと平和の碑」(大倉山公園)(戦の痕跡・約657m)
- 旧湊川の付け替え跡(新開地・湊川公園)(水の痕跡・約924m)
- 福原京跡(雪見御所旧跡)(地の痕跡・約1.4km)
- 経が島(平清盛が大輪田泊に築いたと伝わる人工島の推定地)(地の痕跡・約1.4km)