神戸大空襲の被災地と「神戸空襲を忘れない いのちと平和の碑」(大倉山公園)|何があった場所か
1945年、神戸の市街地はくり返し空襲を受けた。神戸市は、2月4日・3月17日・5月11日・6月5日・8月6日の空襲をまとめて神戸大空襲と呼び、市域の被害を戦災家屋14万2,586戸、罹災者53万1,694人、死者7,524人、負傷者1万6,948人と記す。神戸市歴史公文書館は、6月5日までの大空襲で市街地面積の6割が破壊され焦土化したと記す。大倉山公園の北側には、死没者の名を刻む「神戸空襲を忘れない いのちと平和の碑」が2013年8月15日に建てられた。神戸市は今も、刻銘のための死没者情報の提供を受け付けている。
時のながれ
- 昭和17年(1942)4月18日 — アメリカ軍による最初の日本本土空襲。神戸市歴史公文書館は、来襲した爆撃機16機のうち1機が兵庫区に焼夷弾を投下したと記す。
- 昭和20年(1945)2月4日 — 神戸市域への無差別焼夷弾爆撃が初めて行われる。総務省は、精密爆撃から焼夷弾爆撃へ攻撃方法を転換するための実験的な性格をもつ攻撃だったと記す。
- 昭和20年(1945)3月17日 — 未明の大空襲。総務省は、当時の区名で兵庫区・林田区・葺合区を中心に神戸市の西半分が壊滅したと記す。
- 昭和20年(1945)5月11日 — 東灘区にあった航空機工場を目標とした爆弾による精密爆撃が行われ、灘区・東灘区が被害を受けた。
- 昭和20年(1945)6月5日 — 西は垂水区から東は西宮までの広い範囲が爆撃され、それまでの空襲で残っていた神戸市の東半分が焦土と化した。神戸市歴史公文書館は、この時点で市街地面積の6割が破壊されたと記す。
- 昭和56年(1981) — 空襲の記憶を語り継ぐ戦災記念資料室が神戸市立中央図書館に開設される。震災後の1997年に兵庫図書館へ移り、現在も資料が公開されている。
- 平成25年(2013)8月15日 — 大倉山公園の北側に神戸空襲を忘れない いのちと平和の碑が建立され、除幕式が行われた。神戸市は現在も死没者の情報提供を受け付け、刻銘のために神戸空襲を記録する会へ提供している。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 神戸市の神戸空襲のページは、1945年2月4日昼・3月17日未明・5月11日朝・6月5日朝・8月6日深夜の空襲をまとめて神戸大空襲と呼ぶと記す。
- 同じ神戸市のページは、現在の神戸市域の被害を戦災家屋数14万2,586戸、罹災者53万1,694人、死者7,524人、負傷者1万6,948人と記す。
- 総務省の神戸市における戦災の状況のページは、3月17日・5月11日・6月5日の3回の大空襲によってほぼ神戸市域が壊滅したと記し、被害を戦災家屋数14万1,983戸、罹災者53万858人、死者7,491人、負傷者1万7,002人とする。同じページは新修神戸市史を引いて、人口千人当たりの戦争被害率が47.4人で、東京・大阪・名古屋・横浜・神戸の五大都市のなかで最も高かったとも記す。
- 神戸市歴史公文書館の神戸大空襲と戦災復興のページは、6月5日までの大空襲により神戸市の市街地面積の6割が破壊され焦土化したと記し、人的被害を死者約7,500人超、負傷者約17,000人とする。
- 神戸市のよくある質問と回答のページは、モニュメントの名称を神戸空襲を忘れない いのちと平和の碑とし、大倉山公園内(神戸市中央区楠町7丁目)の北側にあると案内する。同じページは、遺族などから寄せられた死没者の情報を神戸市が受け付け、神戸空襲を記録する会に提供して刻銘される仕組みも説明する。
- 総務省の追悼施設のページは、この碑の所在を大倉山公園、住所を兵庫県神戸市中央区楠町7、建立者を神戸空襲を記録する会、建立年を平成25年8月15日と記し、碑文に8000人をこえる市民が亡くなられたといわれていますと刻まれていることを伝える。
- 神戸市公園緑化協会は、2013年8月15日に大倉山公園のゲートボール広場の北側で建立と除幕の式があったと記し、大倉山公園を面積約7.9ヘクタールの公園で、園内に神戸市立中央図書館・神戸市立中央体育館・神戸文化ホールがあると案内する。
- 兵庫県の戦争の記憶と教訓の継承のページは、県庁南側にあった戦災プラタナスの切り株が神戸市立兵庫図書館の戦災記念資料室に保存されていると記す。神戸市のページによれば、この資料室は1981年に中央図書館へ開設され、1997年に兵庫図書館へ移った。
そのため、このページではこうしています
- 地図の位置は、オープンストリートマップが大倉山公園に対して返した代表点(北緯34.686305・東経135.173059)を用いた。碑は公園の北側にあるため、碑の実際の位置とは数十メートルの差がある。
- 神戸市のページと総務省のページで被害の数字が一致しないため、双方の出所を明示している。
- 空襲は広い範囲におよぶ出来事のため、地図の一点は追悼の場として公的に案内されている碑の位置を代表点とした。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 3月17日と6月5日の空襲に投入された航空機の数や、投下された焼夷弾の量を示す公的な資料は確認できなかった。
- 焼失面積を平方キロメートルなどの実数で示す公的な資料は確認できなかった。確認できたのは市街地面積の6割という割合の記述までである。
- 碑に刻まれている名前の現在の数を、神戸市や総務省のページで確認することはできなかった。
- 碑そのものの位置を示す座標は、公開されている地図データからは確認できなかった。
- 神戸市のページは死者7,524人・負傷者1万6,948人・罹災者53万1,694人・戦災家屋14万2,586戸とするが、総務省のページは同じく神戸市の資料を出所として死者7,491人・負傷者1万7,002人・罹災者53万858人・戦災家屋14万1,983戸とする。数字は一致しない。
- 神戸市歴史公文書館と兵庫県は死者約7,500人超・負傷者約17,000人と概数で記す。一方、大倉山公園の碑の碑文は8000人をこえる市民が亡くなられたといわれていますと記し、昭和50年に兵庫区へ建てられた神戸空襲戦歿者慰霊碑の説明文は犠牲者約一万名と記す。総務省のページ自身も、この数字は確定したものでなく実際はこれを上回ると記しており、集計の範囲が異なるため単純には比べられない。
参考・出典
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
近くの痕跡
- 湊川の戦いの古戦場と楠木正成墓碑(湊川神社)(戦の痕跡・約657m)
- 福原京跡(雪見御所旧跡)(地の痕跡・約799m)
- 旧湊川の付け替え跡(新開地・湊川公園)(水の痕跡・約944m)
- 烏原貯水池と旧烏原村の石臼(立ヶ畑堰堤)(水の痕跡・約1.4km)