烏原貯水池と旧烏原村の石臼(立ヶ畑堰堤)|何があった場所か
神戸の近代水道は、1905年に完成したこの貯水池から始まった。堰堤の右岸には、石臼が約90メートルにわたって護岸に並ぶ。神戸市は、貯水池の建設で水没した烏原村の住民が線香づくりに使っていた石臼を、記念として移したものと説明する。日本ダム協会の資料は、水没した1904年当時の村を98戸・414人と記す。堰堤は1998年に国の登録有形文化財となり、周囲は水と森の回遊路として整備されている。
時のながれ
- 1901年(明治34年) — 日本ダム協会のダム便覧は、立ヶ畑堰堤の工事に着手した年を1901年とする。
- 1904年(明治37年) — 貯水池の築堤にともない、烏原村の人々が離村した。ダム便覧は水没時の村を98戸・414人と記す。
- 1905年(明治38年) — 立ヶ畑堰堤が竣工し、烏原貯水池ができた。神戸市の水道創設事業はここで完了した。
- 1913〜1915年(大正2〜4年) — 貯水できる量を増やすため、堤の高さを約2.72メートル嵩上げした。
- 1998年(平成10年)12月11日 — 神戸市水道局烏原立ケ畑堰堤(烏原ダム)として、国の登録有形文化財に登録された。
- 現在 — 貯水池の周囲は水と森の回遊路として整備され、休憩所や広場が設けられている。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 神戸市水道局は、烏原貯水池が新湊川水系の石井川・烏原川および天王谷川を水源とし、1905年に完成したと記す。あわせて、貯水池の周囲は水と森の回遊路として整備され、休憩所や広場があり散歩道として利用できると案内する。
- 神戸市は、堰堤の右岸の護岸に約90メートルにわたって石臼が並び、これは貯水池の建設により水没した烏原村の住民が線香の製造に用いた石臼を記念として移設したものと説明する。
- 神戸市兵庫区は、貯水池の建設で烏原村は水没し、村にあった願成寺は現在地に移されたと記す。
- 文化遺産オンラインは、この堰堤が神戸市水道局烏原立ケ畑堰堤(烏原ダム)の名で1998年12月11日に登録有形文化財となり、所有者は神戸市であると記載する。
- 日本ダム協会のダム便覧は、烏原村が1904年に烏原貯水池の築堤のため水底に没したとし、そのときの戸数を98戸、人口を414人と記す。
- 神戸新聞は、現地の看板に、1904年に烏原村の人々が離村するにあたり神戸市の繁栄を願って石臼を記念に残したと書かれていると報じ、神戸市水道七十年史を引いて村の人口を400人ほどとする。
そのため、このページではこうしています
- 地図の目印は、位置が二つの資料で重なる立ヶ畑堰堤に置いた。旧集落があったとされる場所は、そこから西から北西にかけての湖面の下にあたる。
- 数字は、資料ごとの言い方をそのまま並べて示した。
- 離村の経緯は、水道の水源を開発するための移転という行政上のできごとにあたる。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 移転にあたっての補償の内容や、住民がどこへ移り住んだかを示す公的な記録は確認できなかった。
- 旧村の石碑や石仏がまとまって移されて保存されているかどうかは、公的な資料では確認できなかった。
- 戸数98戸・人口414人という数字のもとになった原典の該当ページまでは確認できていない。
- 堰堤の所在地の書き方が資料によって分かれる。神戸市水道局は兵庫区千鳥町3丁目、神戸市の土木遺産のページは兵庫区烏原町字東山、文化遺産オンラインは兵庫区烏原町山郡とする。いずれも兵庫区内である。
- 村の人口は、日本ダム協会の資料が414人、神戸新聞が神戸市水道七十年史を引いて400人ほどとしており、おおむね重なるが完全には一致しない。
参考・出典
- 烏原立ヶ畑堰堤(からすはら(たちがはた)えんてい)
神戸市 - 貯水池
神戸市水道局 - 神戸市水道局烏原立ケ畑堰堤(烏原ダム)
文化遺産オンライン(文化庁) - まちかどの伝説と信仰
神戸市兵庫区 - 立ヶ畑ダム[兵庫県]
ダム便覧(一般財団法人日本ダム協会) - 神社の洞穴、貯水池護岸の円い穴… 平野の不思議に迫る
神戸新聞NEXT
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