福原京跡(雪見御所旧跡)|何があった場所か
神戸市兵庫区の資料は、治承4年(1180)に平清盛が京都を去って福原に遷都することを決め、突然の発表に京都は大混乱に陥ったが、同年6月2日に遷都が断行されたと説明する。同じ資料によれば、安徳天皇は3日に清盛の弟である頼盛の山荘に入り、翌日には清盛邸に、11月12日には新造の皇居に入ったが、その月の26日には京都へ帰還することとなった。都が置かれたのは半年に満たない。ところが、その中枢がどこであったかは定まっていない。神戸市が公開する高橋昌明・神戸大学名誉教授の解説は、11月に完成して安徳天皇が行幸した新造内裏の場所について、楠・荒田町遺跡の近辺と推定する意見も出ていると述べる。同じ解説は、祇園遺跡で庭園の池と導水路が、楠・荒田町遺跡で櫓跡と推定される掘立柱建物跡と2本の壕遺構が見つかったとし、考古学的な発掘はまだ始まったばかりだと記す。地図の位置とした雪御所町について、兵庫区の資料は、石井川と天王谷川の合流点に位置し清盛の雪見御所の跡といわれる地とし、明治41年に湊山小学校の校庭から礎石や土器などが発掘されてこの石碑が立てられたと説明する。神戸市の資料は、明治時代までこの地に雪之御所という小字があったことが呼び名の由来だと記す。
時のながれ
- 治承4年(1180)6月 — 神戸市兵庫区の資料は、6月2日に遷都が断行され、安徳天皇が3日に平頼盛の山荘、翌日に清盛邸に入ったと説明する。
- 治承4年(1180)11月 — 同じ資料は、安徳天皇が新造の皇居に入ったが、その月のうちに京都へ帰還することとなったと記す。
- 寿永2年(1183)8月 — 神戸市が公開する解説は、都落ちの際に平宗盛らが福原の内裏に火を放って西国へのがれたと記す。
- 明治35年(1902) — 同じ解説は、天王川右岸の湊山町で石材列が発見されたと記す。
- 明治41年(1908) — 神戸市兵庫区の資料は、湊山小学校の校庭から礎石や土器などが発掘され、雪見御所旧跡の碑が立てられたと記す。
- 大正元年(1912) — 兵庫県教育委員会の資料は、雪之御所の字名から雪御所町の町名が付けられたと説明する。
- 平成15年(2003) — 神戸市が公開する解説は、楠・荒田町遺跡で櫓跡と推定される建物跡と2本の壕遺構が出土したと記す。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 神戸市兵庫区の資料「平清盛ゆかりの史跡 福原遷都 兵庫区北部編」は、治承4年(1180)に清盛が京都を去って福原に遷都することを決定し、突然の発表に京都は大混乱に陥ったが、同年6月2日に遷都が断行されたと説明する。
- 同じ資料は、安徳天皇が3日に清盛の弟である頼盛の山荘に入り、翌日には清盛邸に、11月12日には新造の皇居に入ったが、その月の26日には京都に帰還することとなったと記す。
- 同じ資料は、石井川と天王谷川の合流点に位置する雪御所町を清盛の雪見御所の跡といわれる地とし、明治41年に湊山小学校の校庭から礎石や土器などが発掘されてこの石碑が立てられたと述べる。
- 同じ資料は、現在の荒田八幡神社がかつて清盛の弟である頼盛の山荘があった場所で、福原遷都の際は安徳天皇の仮の住まいとして使われたと伝えられているとし、境内に昭和55年に立てられた福原遷都八百年の碑があると記す。
- 神戸市の資料「福原京の遺跡と遺物」は、明治時代までこの地に雪之御所という小字があったことから、平家物語に記される雪見の御所があった地とされると呼び名の由来を説明する。同じ資料は、祇園遺跡を福原の中心にあたる遺跡としつつ、調査地が狭いために全体像は明らかになっていないと記す。
- 神戸市が公開する高橋昌明・神戸大学名誉教授の解説は、楠・荒田町遺跡について、2003年に櫓跡と推定される掘立柱建物跡と、その南に東西方向39メートルにわたって並行する2本の壕遺構が出土したとし、11月に完成して安徳天皇が行幸した新造内裏の場所はこの近辺と推定する意見も出ていると述べる。
- 同じ解説は、天王川と石井川がつくるY字状の空間に雪之御所という小字があったこと、文献から清盛邸の南に雪御所が存在したことがわかること、1902年に天王川右岸の湊山町で石材列が発見され、次いで3年後にその南の湊山小学校の校舎改築の際に多数の土器・瓦片・礎石が発見されたことを記す。
- 兵庫県教育委員会の平清盛と源平合戦関連文化財群の調査票は、雪御所遺跡を雪見御所推定地と呼び、所在地を神戸市兵庫区雪御所町2-1とし、碑が1908年に建てられ、1912年に雪之御所の字名から町名が付いたとする。碑はのちに校庭から北側の歩道に面した場所へ移されたとも記す。
そのため、このページではこうしています
- 福原京の中枢の位置は資料によって見解が分かれるため、地図の位置は雪見御所旧跡の碑が立つ雪御所町に置いた。
- 碑は旧湊山小学校の敷地の北側で歩道に面すると兵庫県教育委員会の資料が記すため、公道の側から眺められる場所として紹介した。
- 日付や年に開きのあるものは、資料ごとの記述を併せて示した。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 雪見御所旧跡の碑や雪御所遺跡が国・兵庫県・神戸市の文化財として指定または登録されているかは確認できなかった。
- 碑に刻まれた文字の全文は、現地の写真や拓本に当たっていないため読み取れていない。
- 湊山小学校の校舎改築にともなう近年の発掘で、平家の時代と特定できる遺物が出たかどうかは、発掘調査報告書の本体に到達できなかった。
- 碑の建立年について、神戸市兵庫区と兵庫県教育委員会の資料は明治41年(1908)とするが、神戸市教育委員会が編んだ神戸の史跡を引く記述は昭和3年(1928)とする。
- 出土の年についても、神戸市兵庫区の資料が明治41年とする一方、神戸市が公開する高橋昌明氏の解説は1902年に湊山町で石材列が見つかり、その3年後に湊山小学校の校舎改築で土器や瓦片や礎石が出たとする。
- 京都へ還った日について、神戸市兵庫区の資料は11月26日とし、神戸市が公開する高橋氏の解説は11月23日に帰還が始まったとする。新造の皇居に入った日も、前者は11月12日、後者は11月11日と分かれる。
参考・出典
- 平清盛ゆかりの史跡
神戸市兵庫区 - 平清盛ゆかりの史跡 福原遷都 兵庫区北部編
神戸市兵庫区 - 福原京の遺跡と遺物
神戸市 - 特集 源平 福原遷都とは(高橋昌明 神戸大学名誉教授)
神戸市 - 平清盛と源平合戦関連文化財群調査票
兵庫県教育委員会 - 福原の都(デジタルミュージアム)
兵庫県立歴史博物館 - 幻の福原京
兵庫県立考古博物館 - 兵庫県遺跡地名表
兵庫県立考古博物館
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
近くの痕跡
- 烏原貯水池と旧烏原村の石臼(立ヶ畑堰堤)(水の痕跡・約631m)
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