旧湊川の付け替え跡(新開地・湊川公園)|何があった場所か
神戸市の資料は、かつての湊川が川底を周囲の平地より高くした天井川で、神戸と兵庫の市街を分けていたと記す。明治二十九年の大水害を契機に付け替えが進み、会下山を貫く湊川隧道が明治三十四年に完成して、流れは西の苅藻川水系へ移された。取り残された旧河道は埋め立てられ、その跡地に盛り場の新開地が生まれたと伝わる。湊川公園は旧河床を埋めた区間にあたるとされ、地上から約六メートルの高さにあると案内されている。川はもう見えないが、公園の高さと新開地という地名そのものが、かつての流路の位置を今に伝えている。
時のながれ
- 明治29年(1896) — 8月の豪雨で湊川の堤防が決壊。神戸市の解説は、38人が亡くなり7千戸以上が浸水したと記す。付け替えを求める声が決定的となる。
- 明治30年(1897) — 湊川改修株式会社が設立され、民間主導で付け替え工事に着手したと神戸市の解説は記す。当初は会下山の南を開削する案だったが、山の下を抜ける計画に改められたと湊川隧道の公式の案内は伝える。
- 明治34年(1901) — 会下山を貫く湊川隧道が竣工。兵庫県の解説は同年8月の竣工とし、わが国最初の近代河川トンネルと記す。流れは西の苅藻川水系へ移された。
- 明治38年(1905) — 旧湊川の埋立が完了し、新開地が生まれたと新開地まちづくりNPOの年表は記す。翌年から翌々年にかけて相生座が移り、芝居小屋や活動写真小屋が集まりはじめる。
- 大正13年(1924) — 湊川公園内に新開地タワー(のちの神戸タワー)が建つ。神戸市中央図書館の解説は、湊川の付け替えによって生まれた湊川新開地のシンボルであったと記し、昭和43年(1968)に撤去されたことを伝える。
- 昭和20年(1945) — 神戸大空襲で地区は全焼したと新開地まちづくりNPOの年表は記す。戦後は映画館を中心に復活し、昭和32年(1957)の神戸市役所の三ノ宮地区への移転をはじめ、都市機能の移転が続いた。
- 平成7年〜12年(1995〜2000) — 阪神・淡路大震災で地区の7割強が全半壊し、隧道も坑門の崩壊や煉瓦の亀裂などの被害を受ける。2000年に新湊川トンネルが完成し、旧隧道は約100年の役目を終えて保存・公開へ移った。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 神戸市の湊川隧道(会下山トンネル)の解説は、明治時代の湊川は天井川で、度重なる氾濫のため治水事業が急務となっていたと記載する。
- 同じ神戸市の解説は、1896年(明治29年)の豪雨で堤防が決壊し38人が亡くなり7千戸以上が浸水したこと、翌1897年(明治30年)に湊川改修株式会社が設立されたこと、民間主導の事業が4年を費やし1901年(明治34年)に湊川隧道の完成を見たことを記載する。
- 同じ神戸市の解説は、旧河道が埋め立てられ、中央幹線以北は映画館や芝居小屋が軒を連ねる繁華街として発展し、今日では兵庫区役所や湊川公園、神戸新鮮市場へと姿を変えたこと、中央幹線以南は整地され湊町線の道路用地となったことを記載する。
- 神戸市兵庫区の区の歴史の解説は、旧湊川が明治29年の大水害を契機に付替工事が進められ長田の苅藻川に流しこまれたこと、もとの川筋は埋め立てて新開地の繁華街となったこと、明治39年(1906)12月に相生座が移ってからは劇場や寄席が並んだことを記載する。
- 兵庫県の湊川隧道についての解説は、湊川隧道が標高約65メートルの会下山をくり抜く、わが国最初の近代河川トンネルとして1901年(明治34年)8月に竣工したこと、2000年(平成12年)に新湊川トンネルが完成して100年にわたる役目を終えたことを記載する。
- 文化庁の文化遺産オンラインは、湊川隧道を登録有形文化財(建造物)とし、所在地を兵庫県神戸市兵庫区会下山町三丁目地先から湊川町八丁目地先と記載する。土木学会は2011年度の選奨土木遺産に選んでいる。
- 新開地まちづくりNPOの解説は、新開地地区が1905年(明治38年)に旧湊川を埋め立てた跡地に自然発生的に生まれたこと、1911年に湊川公園が開園したこと、1945年(昭和20年)の神戸大空襲で地区が全焼したこと、1957年に神戸市役所が三ノ宮地区へ移転したこと、1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災で地区の7割強が全半壊したことを記載する。
- 湊川隧道の公式の案内は、湊川公園について、かつて湊川が流れていた河川敷が埋め立てられてできた公園で、地上約6メートルの高さにあることから湊川が天井川だったことが窺えると記載する。神戸市の子育て応援サイトは、同公園の所在地を神戸市兵庫区荒田町1丁目20番1号、面積を2.3ヘクタールと記載する。
そのため、このページではこうしています
- 対象が線状に延びる旧河道であるため、地図上の位置は旧河道の中ほどにあたる湊川公園に置いた。緯度経度はオープンストリートマップが湊川公園の範囲に対して返した値をそのまま用いている。
- 会下山を貫く湊川隧道は旧河道そのものではなく山の内部にあたるため、地図の位置は旧河道側の湊川公園に置いた。
- 新開地一帯と湊川公園はいずれも人が暮らし商いを営む場であり、来訪の際は周辺の営みへの配慮が求められる。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 旧河道の埋立地がどのような手続きで払い下げられ、誰が取得したのかを示す公的な資料は確認できなかった。
- 新開地という名称を誰がいつ名付けたのかを示す資料は確認できなかった。
- 湊川改修株式会社の発起人や資本金の全体像を示す一次資料は確認できなかった。神戸市の解説は神田兵右衛門と小曾根喜一郎らの県への請願を挙げ、湊川隧道の公式の案内は大阪の実業家である藤田伝三郎らによる設立を挙げており、両者は互いを補うようにも読めるが、同じ記述には行き着かなかった。
- 兵庫県の湊川流路の変遷および湊川改修の経緯にあたる各解説は、検索の一覧には残るものの現在は開くことができなかった。同県の湊川隧道についての解説と新湊川トンネルの概要は開くことができた。
- 湊川隧道の延長について、神戸市の文化財の解説は620メートル、神戸市の河川の解説は670メートル、湊川隧道の公式の案内は約600メートル、文化庁の登録では400メートルと記しており、資料により数値が異なる。文化庁の400メートルは登録された範囲を指すとみられるが、その旨の明記は見つからなかった。
- 国の登録有形文化財となった年月日について、神戸市の文化財の解説は2018年(平成30年)11月16日、兵庫県の解説は2019年(平成31年)、文化庁の登録は2019年3月29日と記しており、一致していない。
- 事業主体の名称について、神戸市の河川の解説は湊川改修会社と記し、神戸市の文化財の解説と湊川隧道の公式の案内は湊川改修株式会社と記す。
- 新開地に最初に移った小屋である相生座の年について、神戸市兵庫区の解説は明治39年(1906)12月、新開地まちづくりNPOの年表は1907年と記す。
- 隧道の上流側の坑口の移設や増築の年について、神戸市の解説は1927年(昭和2年)の神戸有馬電気鉄道の工事によるものと記し、土木学会は昭和3年(1928年)の増築と記す。
参考・出典
- 湊川隧道(会下山トンネル)
神戸市 - 湊川隧道(川の工事〜神戸市ではこんな工事をしています〜)
神戸市 建設局 - 兵庫区の歴史 開港・運河・近代化の時代
神戸市兵庫区 - 湊川隧道について
兵庫県 神戸県民センター神戸土木事務所 - 湊川隧道(文化遺産オンライン)
文化庁 - 湊川隧道(選奨土木遺産)
公益社団法人 土木学会 - 湊川隧道とは
湊川隧道保存友の会 - 「新開地」まちの変遷
新開地まちづくりNPO - 湊川公園(子育て応援サイトこどもっとKOBE)
神戸市 - 神戸を知る 神戸タワー
神戸市 中央図書館
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
近くの痕跡
- 湊川の戦いの古戦場と楠木正成墓碑(湊川神社)(戦の痕跡・約924m)
- 神戸大空襲の被災地と「神戸空襲を忘れない いのちと平和の碑」(大倉山公園)(戦の痕跡・約944m)
- 福原京跡(雪見御所旧跡)(地の痕跡・約1.1km)
- 烏原貯水池と旧烏原村の石臼(立ヶ畑堰堤)(水の痕跡・約1.5km)