経が島(平清盛が大輪田泊に築いたと伝わる人工島の推定地)|何があった場所か
神戸市立図書館の資料は、平安時代の兵庫津一帯が大輪田泊と呼ばれた港で、東南からの風波をまともに受けて停泊が危険だったため、福原に別荘を構えた平清盛が承安3年(1173)に私財を投じて改修し、泊の前面に防波堤となる島を築いたと説明する。この島が経が島で、同じ資料は、築かれた詳しい場所は分かっていないと付け加える。神戸市兵庫区役所の資料は、島上町という町名を経ケ島の上にできた町という意味だと説明し、新纂浄土宗大辞典も経ヶ島を現在の島上町あたりと考えられるとする。島の輪郭は、近代の運河開削と埋め立てを経た今の地形からはたどれない。それでも神戸公式観光サイトは、兵庫運河沿いに大輪田泊の修築のための石材だったと推定される巨大な石椋が置かれていると紹介し、運河北端の来迎寺(築島寺)には、人柱になったと伝わる松王丸の供養塔が残る。町名と石と寺が、失われた島のありかをゆるやかに指し示している。
時のながれ
- 奈良時代 — 神戸公式観光サイトは、およそ1300年前の奈良時代に僧の行基が大輪田泊として修築したと紹介する。
- 弘仁3年(812) — 神戸市立図書館の資料は、東南からの風波で停泊が危険だったため、朝廷がこの年以来しばしば港の改修を行ったと説明する。神戸市港湾局の年表も同年に大輪田泊の修築を置く。
- 承安3年(1173) — 神戸市立図書館の資料は、福原に別荘を構えた平清盛がこの年に私財を投じて改修を行い、泊の前面に防波堤となる島を築いたと説明する。着工年の根拠は平家物語の延慶本・長門本や山槐記等よりの見解だと注記される。
- 承安年間(1171〜75) — 神戸市兵庫区役所の資料は、島上町をこの時期に清盛が海を埋め立てて築かせた経ケ島の上にできた町という意味だと説明する。
- 承安4年(1174) — 神戸市港湾局の神戸港の歴史は、平安時代の出来事として経ヶ島の築造をこの年に置く。
- 治承4年(1180) — 神戸市立図書館の資料は、清盛が国家的事業として大輪田泊の大規模な整備を計画したが、源平争乱によりほとんど実行されなかったと思われると説明する。
- 建久7年(1196) — 百科事典マイペディアとブリタニカ国際大百科事典 小項目事典は、清盛の死で中断した工事が東大寺の僧重源によって再開され、この年に完成したとする。
- 明治8年(1875) — 神戸市の資料は、船の避難所を設ける目的で明治7年2月に着工した運河工事のうち、この年5月に新川運河の部分だけが完成したと説明する。兵庫運河全体の完成は明治32年12月。
- 令和4年(2022) — 兵庫県は、兵庫津の地に整備した県立兵庫津ミュージアムのひょうごはじまり館を11月23日に開館したとする。初代県庁館の開館は令和3年11月3日である。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 神戸市立図書館の「神戸を知る 平清盛と神戸」は、大輪田泊が東南からの風波を受けて停泊が危険な港であり、朝廷が弘仁3年(812)以来しばしば改修を行ったこと、平清盛が承安3年(1173)に私財を投じて改修し、泊の前面に防波堤となる島を築いたことを説明する。そのうえで「築かれた詳しい場所はわかっていません」とし、着工年は平家物語の延慶本・長門本、山槐記等よりの見解だと注記する。
- 神戸市兵庫区役所の「大輪田の泊と平清盛の時代」は、島上町を承安年間(1171〜75年)に清盛が海を埋め立てて築かせた「経ケ島」の上にできた町という意味だと説明し、築島の目的は大輪田の泊を東南の風から守るための工夫だったとする。日本郵便の郵便番号一覧でも、兵庫区の町名として島上町が確認できる。
- 同じ兵庫区役所の資料は西摂大観を引き、羽坂通には平安時代まで塩槌山と呼ばれる小山があったが清盛が経ヶ島を築くため崩したと伝わること、その神の怒りで風波を引き起こさぬようにと七宮神社を建立し、島の完成と港の安全を祈願したとされることを伝える。恵林寺の弁財天社も、経ヶ島築造時の水難克服を祈願して建てられたと伝わるとする。
- 神戸市港湾局の「神戸港の歴史」は、神戸港が務古水門、大輪田の泊と呼ばれていたと説明し、年表で弘仁3年(812)に大輪田泊の修築を置き、平安時代に経ヶ島の築造(1174年)を行うなど国際貿易の拠点として発展したとする。
- 兵庫県立歴史博物館の「ひょうご伝説紀行」は、松王丸の伝承をこう伝える。工事が難航したため清盛が陰陽博士に占わせると、竜神の怒りを鎮めるため30人の人柱が要ると告げられた。讃岐国の武将の子で17歳の松王丸が身代わりを願い出て海に沈み、人々は経を書き写した石を海へ投げ入れた。島は築島または経ヶ島と呼ばれ、清盛は松王丸を弔うため経島山来迎寺を建てたとされる。
- 兵庫県立歴史博物館の「ひょうご歴史の道」は、来迎寺(築島寺)の所在地を神戸市兵庫区島上町とし、境内に松王入海の碑と墓があること、寺はもともと三川口にあったとされ湊川の合戦や第二次世界大戦で焼失し、現在はもとの位置とは違う場所に再建されて港湾施設に囲まれていることを伝える。
- 新纂浄土宗大辞典の経ヶ島の項は、経ヶ島を摂津国八部郡兵庫津の地名とし、現在の神戸市兵庫区島上町あたりと考えられるが詳しい場所はわかっていないとする。承安三年(一一七三)に清盛が大輪田泊整備の一環として港の前面に波浪よけの人工島を築いたが、難工事をきわめ容易に完成しなかったと説明する。
- 神戸市の兵庫運河・新川運河の説明は、明治初期の兵庫港に船の避難所がなく遭難が多かったため運河建設が計画され、明治7年2月着工、明治8年5月に新川運河の部分だけが完成したこと、兵庫運河全体は明治32年12月に完成したことを説明する。現在の水面と護岸線は近代の開削と埋め立てによるもので、平安時代の汀線とは大きく異なる。
そのため、このページではこうしています
- 座標は来迎寺(築島寺)の位置をNominatimで確かめて採った。兵庫県立歴史博物館が示す所在地の島上町と一致する。経が島の範囲は特定されていないため、点はあくまで目安である。
- 古代大輪田泊の石椋は、この点から南へおよそ60メートルの新川運河沿い(兵庫区船大工町)にあり、公道沿いの遊歩道から見られる。清盛塚・十三重石塔は南西およそ900メートルの松原通にあり、いずれも公道や公園、通常参拝できる寺社の範囲に収まる。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 経が島そのものと確定できる遺構や遺物が発掘調査で確認されたという記述は、神戸市・兵庫県の公開資料の範囲では見つけられなかった。神戸市が公開する埋蔵文化財発掘調査報告書の一覧には兵庫津遺跡の第14次から第97次までが並ぶが、公開されている書名だけでは経が島に直接関わる成果の有無を判断できない。
- 古代大輪田泊の石椋について、昭和27年(1952)の新川運河浚渫工事で等間隔の松杭と巨石20数個が見つかり、そのうち1個が運河沿いに保存されている、8世紀後半から10世紀前半の石材と推定される、といった説明は旅行系の情報サイトや個人サイトに共通して見られるが、これを裏づける神戸市・兵庫県名義の公開資料は確認できなかった。神戸公式観光サイトは、兵庫運河沿いに大輪田泊修築のための石材だったと推定される巨大な石椋があると紹介するだけである。
- 新川運河にかかる水門を築島水門と呼ぶ用例は複数の紹介記事や写真素材の題名に見られるが、神戸市名義の公開資料で正式名称として確かめることはできなかった。
- 経が島の規模を37ヘクタール前後とする推定は複数の解説に見られるが、その根拠を示す一次資料の該当箇所までは確認できなかった。
- 島が成った年について資料が分かれる。神戸市立図書館は承安3年(1173)を清盛が改修に着手した年とし、神戸市港湾局は経ヶ島の築造を1174年とする。百科事典マイペディアは1180年に清盛が計画し、工事は清盛の死で中断、1196年に東大寺の僧重源によって完成したとする。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典は、治承5年(1181)の清盛の死で中断し、建久7年(1196)に重源が再開して完成したとする。
- 人柱の伝承も資料で筋が異なる。神戸市立図書館が引く平家物語巻六は、清盛が人柱を入れることを罪深いと考え、代わりに一切経を書いた石を海に沈めたことから経の嶋と名付けられたとする。一方、同じ資料が要約する摂津名所図会(1796)は、讃州香川城主の嫡子である松王小児17歳が身代わりを願い出て、経石とともに海に沈められたとする。兵庫県立歴史博物館の伝説紹介も、松王丸が沈んだ筋を採る。
- 来迎寺(築島寺)の位置づけも一様ではない。経が島の推定地の手がかりとして来迎寺周辺を挙げる説明がある一方、兵庫県立歴史博物館は、この寺がもともと三川口にあったとされ、戦火で焼失したのち元の位置とは違う場所に再建されたとする。
- 石椋の読みが資料で割れる。旅行系の情報サイトや個人サイトはいしくら、神戸公式観光サイトはいわくらとふりがなを付ける。
参考・出典
- 神戸を知る 平清盛と神戸
神戸市立図書館 - 大輪田の泊と平清盛の時代
神戸市兵庫区役所 - 神戸港の歴史
神戸市港湾局 - ひょうご伝説紀行 清盛の夢と神戸の海に沈んだ少年
兵庫県立歴史博物館 - ひょうご歴史の道 名所めぐり:来迎寺(築島寺)
兵庫県立歴史博物館 - 新纂浄土宗大辞典 経ヶ島
浄土宗 - 兵庫運河・新川運河
神戸市建設局 - 経ヶ島(百科事典マイペディア/ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
コトバンク - 神戸のはじまりの地・兵庫津
神戸公式観光サイト Feel KOBE - 兵庫津ミュージアムの整備について
兵庫県
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
近くの痕跡
- 兵庫運河と新川運河(和田岬の難所を避けるために掘られた運河)(水の痕跡・約501m)
- 湊川の戦いの古戦場と楠木正成墓碑(湊川神社)(戦の痕跡・約1.4km)
- 旧湊川の付け替え跡(新開地・湊川公園)(水の痕跡・約1.5km)
- 神戸大空襲の被災地と「神戸空襲を忘れない いのちと平和の碑」(大倉山公園)(戦の痕跡・約2.0km)