神戸外国人居留地跡(旧居留地煉瓦造下水道と十五番館)|何があった場所か
神戸市歴史公文書館は、慶応3年4月(1867年)の取極に基づいて幕府が神戸村で外国人居留地の造成に着手したものの開港には間に合わず、慶応4年6月(1868年)にようやく工事が終わったと記す。区域は東が旧生田川(現在のフラワーロード)、西が鯉川筋、北が旧西国街道、南が海で、神戸旧居留地オフィシャルサイトはおよそ500メートル四方の砂地と畑地だったと説明する。神戸市立博物館は、基本計画をイギリス海軍の測量技師C.ブロックが幕末に起こし、イギリス人土木技師J.W.ハートが引き継いで明治5年7月に計画図を仕上げたとし、周囲を含む南北8条・東西5条の街路と126区画、歩道と車道の分離、街灯、下水道が図示されていると解説する。文化庁は浪花町・明石町に残る煉瓦造の下水管を国の登録有形文化財に登録し、神戸市は約90メートルが今も雨水管として働くと記す。居留地は明治32年(1899年)7月17日に日本へ返還された。
時のながれ
- 慶応3年(1867) — 4月13日、兵庫港並びに大坂に於て外国人居留地を定むる取極が結ばれ、神戸村と生田川の間に居留地を置くことが決まる。幕府は柴田剛中を兵庫奉行として造成にあたらせた。
- 慶応3年12月7日(1868年1月1日) — 兵庫(神戸)開港。開港日までに出来ていたのは運上所の施設と埠頭3か所、倉庫3棟のみだったとされる。
- 慶応4年(1868) — 神戸市歴史公文書館は6月26日に居留地造成工事が完成したとする。7月には第1回の土地競売が行われ、15番地はフランス人ガンダベルが落札した。
- 明治4年(1871) — 3月からの3か月の突貫工事で生田川を東へ付け替え。旧河川敷は埋め立てられ、のちのフラワーロードと東遊園地、加納町になった。
- 明治4年4月17日(1871) — 英字新聞ザ・ファー・イーストが神戸バンドと題する記事を載せ、その中で同業紙ザ・ジャパン・メールの一節として、東洋における居留地としてもっともよく設計されているという評を引用する。
- 明治5年(1872) — 7月、J.W.ハートが神戸外国人居留地計画図を完成させる。煉瓦造下水道もこの頃の竣工とされ、神戸市は横浜の居留地とほぼ同時期のわが国最古の近代下水道だとする。
- 明治6年(1873) — 2月7日までに4回にわたる競売が終わり、126区画すべてが永代借地として貸し渡された。
- 明治32年(1899) — 7月17日午前10時、返還式典。居留地は神戸市へ編入され、外国人の行政権と財政権は解消した。
- 平成元年(1989) — 5月19日、旧神戸居留地十五番館が国の重要文化財に指定される。境界の煉瓦塀と石柱も附として含まれる。
- 平成16年(2004) — 7月23日、旧神戸居留地煉瓦造下水道が国の登録有形文化財に登録される。2002年には土木学会選奨土木遺産にも選ばれていた。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 神戸市歴史公文書館の「外国人居留地の形成」は、慶応3年4月13日(1867年)に「兵庫港並びに大坂に於て外国人居留地を定むる取極」が結ばれ、居留地の範囲が東はフラワーロード(旧生田川)、西は鯉川筋に囲まれた海岸沿いの25町余りであったと記す。神戸旧居留地オフィシャルサイトは同じ区域を東西約500メートル・南北約500メートルとし、北は旧西国街道、南は海岸線だったと説明する。神戸市の旧居留地地区 地区計画は、現在の区域を約22.1ヘクタール、町名を西町・明石町・播磨町・浪花町・京町・江戸町・伊藤町・東町・前町・海岸通と示している。
- 神戸市立博物館が所蔵する神戸外国人居留地計画図の解説は、居留地の基本計画がイギリス海軍の測量技師C.ブロックによって幕末から立てられ始め、イギリス人土木技師J.W.ハートがその計画案を受け継ぎ、居留地行事局の顧問技師として都市整備を進めたとする。図は明治5年7月の完成で、周囲を含めて南北8条・東西5条の道路と126区画、歩道と車道の分け方、街灯や街路樹の位置、下水道の流路までが描かれているという。
- 文化庁の文化遺産オンラインは、旧神戸居留地煉瓦造下水道を平成16年(2004年)7月23日登録の国の登録有形文化財とし、所在地を神戸市中央区浪花町・明石町、規模を煉瓦造円形管90メートル及び卵形管1.5メートル、我国最初期の近代下水施設で英国人技師ハートの設計だと記載する。神戸市建設局は竣工を明治5年(1872年)頃とし、設計図では口径900ミリの円形管2条(合計817.3メートル)と口径460×600の卵形管4条(合計1,072.6メートル)、煉瓦は明石方面で焼かれた国産品、約5パーセント(約90メートル)が今も雨水管渠として機能し、土木学会選奨土木遺産(2002年)にも選ばれたと記す。
- 神戸市建設局は、下水道の一部が国指定重要文化財の第十五番館横の歩道で公開展示されていると記し、あわせてこの部分が復元されたものだとも述べる。神戸新聞の記事は、その現場を洋館の一角にある柵で囲われた穴とし、のぞき込むとこけむした水路に水が流れていたと描写する。同市の資料は、大丸神戸店東側の明石町の歩道にある矩形のマンホールの蓋の下にも煉瓦巻の円形下水道があるとも述べる。
- 文化庁の文化遺産オンラインは、旧神戸居留地十五番館を平成元年(1989年)5月19日指定の重要文化財とし、明治13年(1880年)又は14年(1881年)の建築、木骨煉瓦造・建築面積170.9平方メートル・二階建・桟瓦葺、所在地を神戸市中央区浪花町と記載する。所有する会社の説明では、居留地に現存する唯一の商館で、明治元年7月の第1回競売で15番地をフランス人ガンダベルが落札し、明治14年から10年間はアメリカ領事館として使われた。附として隣の十六番との境界の煉瓦塀36.39メートルと石柱が含まれる。
- 神戸市建設局の生田川の説明は、明治4年(1871年)3月から3か月の突貫工事で幅約18メートル・深さ4.5メートル・延長1.8キロの新しい川を掘り、旧河川敷と沿岸の土地の払い下げを受けた加納宗七が中央に幅18メートルの道路を設けて周辺を宅地に造成した、それが現在の加納町とフラワーロードだとする。神戸市立博物館の解説は、居留地東側の東遊園地が生田川の堤防跡を利用したものだとする。神戸市港湾局の年表は、居留地の南側で明治40年(1907年)に第1期修築工事が着工し大正11年に竣工したと記す。
- 神戸市歴史公文書館は、明治4年4月17日(1871年)の英字新聞ザ・ファー・イーストが「神戸バンド」と題して居留地を紹介した記事を訳出している。そこでは同紙が、同業のザ・ジャパン・メールの最近号からの引用という形で「神戸はたしかに美しく、東洋における居留地として、もっともよく設計されている」という一節を載せている。同館が挙げる典拠は新修神戸市史 歴史編Ⅳ 近代・現代(神戸市、1994年)21から24頁である。
- 神戸市歴史公文書館は、居留地が明治32年(1899年)7月17日に不平等条約の撤廃・改正によって日本へ返還されたとし、返還式でフランス領事が「30年前、居留地の引き渡しを受けた時、そこは正真正銘の砂浜であった。今、私達はそれを立派なまちに変えて日本に返還する」と述べたと記す。神戸市港湾局の年表も明治32年に外国人居留地が神戸市に編入されたと載せる。神戸旧居留地オフィシャルサイトは式典の時刻を同日午前10時とする。
そのため、このページではこうしています
- 座標は、旧居留地十五番館をNominatimで検索した値を採った。日本語版ウィキペディアが載せる北緯34度41分14.3秒・東経135度11分32.3秒との差はおよそ20メートル以内である。
- 居留地の区域はおよそ500メートル四方の広がりを持ち一点には絞れないため、ピンは公道の歩道から煉瓦造下水道の遺構を見られる十五番館の東脇に置いた。
- 十五番館の建物そのものは民有で飲食店として使われている。歩道上の下水道の公開展示、境界の煉瓦塀と石柱は、いずれも公道から見られる。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 神戸外国人居留地跡の碑について、建立年・碑文・正確な設置位置を示す公的資料は見つけられなかった。大丸神戸店前と旧居留地95番地の2基があるという説明は、日本語版ウィキペディアの画像説明でしか確かめられていない。
- 1975年(昭和50年)の明石町雨水幹線の敷設工事中に煉瓦製下水道が地中から見つかったという経緯は、神戸市や文化庁の資料では確かめられなかった。
- 神戸市が挙げる大丸神戸店東側のマンホールについて、一般の来訪者が中を見られるかどうかは確かめられなかった。蓋を開ける行為は道路管理者の管理下にあると考えられる。
- 基本計画を立て始めたとされるイギリス海軍の測量技師C.ブロックの氏名の綴りや経歴は、神戸市立博物館の解説以外では確かめられなかった。
- 下水道の公開展示部分に見学時間の定めや照明があるかどうかは、確かめられなかった。
- 造成の完了時期。神戸市歴史公文書館は居留地造成工事が慶応4年6月26日(1868年)にようやく完成したとする。一方、神戸旧居留地オフィシャルサイトは土地の競売が1868年9月・1869年・1870年・1873年の4回に分かれ、居留地は数年をかけて完成したとする。神戸市立博物館が所蔵する計画図の完成は明治5年(1872年)7月である。
- 煉瓦造下水道の建設年。文化庁は時代を明治、1869年から1871年とし、神戸市建設局と土木学会は竣工を明治5年(1872年)頃とする。
- J.W.ハートの生年。神戸市建設局は1836年から1900年とし、神戸市立博物館と文化遺産オンラインは1837年頃から1900年とする。
- 街路の数え方。神戸市歴史公文書館は中央の南北路(京町通)に加えて居留地を一巡する道路と東西2本・南北4本の道路が通されたとし、神戸市立博物館は周囲を含めて南北8条・東西5条とする。区画数は双方とも126で一致する。
- 永代借地権の解消時期。日本語版ウィキペディアは1942年(昭和17年)まで存続したとし、十五番館を所有する会社の年表は15番地について大正6年(1917年)2月に旧土地台帳上で抹消されたとする。
- 造成前の地形。神戸旧居留地オフィシャルサイトは砂地と畑地の神戸村とし、不動産会社のコラムは砂地の湿地帯とする。返還式でのフランス領事の言葉は正真正銘の砂浜である。
参考・出典
- 外国人居留地の形成|神戸市の年表
神戸市歴史公文書館 - 旧・居留地下水渠|神戸の土木遺産と歴史
神戸市建設局 - 旧神戸居留地煉瓦造下水道(登録有形文化財)
文化庁 文化遺産オンライン - 旧神戸居留地十五番館(重要文化財)
文化庁 文化遺産オンライン - 神戸外国人居留地計画図
文化庁 文化遺産オンライン/神戸市立博物館 - 旧神戸居留地十五番館
株式会社ノザワ - 旧居留地の歴史
神戸旧居留地オフィシャルサイト - 旧居留地地区 地区計画
神戸市 - フラワーロードは昔、生田川だった
神戸市建設局 - 神戸港の歴史
神戸市 - 平成14年度 選奨土木遺産 旧神戸外国人居留地 下水渠
土木学会 - 明治の技術、今も現役 国登録・旧神戸居留地煉瓦造下水道
神戸新聞NEXT - 神戸外国人居留地
ウィキペディア日本語版
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近くの痕跡
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