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巨椋池はどこにあった?いつまであり、なぜ消えたのか — 京都南部の消えた湖を地図で探す
巨椋池は京都市伏見区南部から宇治市西部、久御山町北東部にかけて広がる周囲約16キロの浅い湖だった。明治の淀川改修で宇治川から切り離されて水質が悪くなり、1933〜41年の国営干拓で634ヘクタールの農地になった。輪郭は地理院地図の「明治期の低湿地」で今の地図に重ねられる。
目次(7項目)
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京滋バイパスの巨椋(おぐら)インターチェンジの名は、かつてこの一帯にあった湖から来ている。巨椋池は、京都市伏見区の南部から宇治市の西部、久御山町の北東部にかけて広がっていた。今その場所には、区画の整った田と住宅地がある。
巨椋池はどこにあったのか
農業農村整備情報総合センターの資料「水土の礎」によると、巨椋池の大きさは東西約4キロメートル、南北約3キロメートル、周囲約16キロメートルだった。京都府レッドデータブック2015は面積を794ヘクタールとし、水深1メートル以下の所が9割を占める皿のような浅い池だったとしている。京都市が立てた駒札は、平均水深を0.9メートルとする。

なぜそこに湖があったのかは、地形で説明される。京都盆地の南では、桂川・木津川・宇治川が集まって淀川となり、大阪平野へ流れ出る。京都府レッドデータブックによると、その出口にあたる山崎の狭い谷のために水はけが悪く、上流側に大きな遊水池(大水をいったん受け止める池)ができた。それが巨椋池だった。同書は、池ができたのは縄文時代前期ごろと意外に新しく、古い「山城湖」の名残りではないとも記す。
今の地名で池の縁を探す手がかりは、いくつかある。
- 京都市伏見区向島(むかいじま): 京都市の駒札「巨椋池(二ノ丸池)址」は、向島から小倉まで池の中に築かれた小倉堤の東側、向島城の南方にあたる場所に立つ。駒札によると、池は秀吉の築堤のあと大池・二ノ丸池・中内池・大内池などに分かれ、この一帯は二ノ丸池の跡にあたる。
- 久御山町東一口(ひがしいもあらい): 久御山町によると、東一口村は鳥羽上皇の時代に与えられた漁業権を持ち、池の大部分を占めた大池の7割を使う漁業の集落だった。漁業権をまとめた大庄屋・山田家の屋敷には、長屋門が今も残る。
- 近鉄京都線: 国土交通省淀川河川事務所によると、秀吉が池の上に築いた太閤堤は奈良への街道も兼ねていて、今はその跡を近鉄京都線が走っている。宇治市教育委員会は、この一連の堤を本来は場所ごとに小倉堤・槇島堤と呼んでいたとしている。

巨椋池はいつまであったのか
水面が消えたのは、昭和の国営干拓による。農林水産省によると、干拓事業は1933年から1941年に行われ、池は634ヘクタールの農地に変わった。
「水土の礎」によれば、昭和7年(1932)に国内初の国営干拓事業として実施が決まり、翌年6月18日に起工式が開かれた。宇治川の側に排水機場を造り、10台のポンプで池の水を汲み出して、池の底だった約800ヘクタールが陸地になった。事業は昭和16年(1941)に終わり、昭和23年(1948)には干拓田の払い下げが済んでいる。
干拓の直前の池の姿を、久御山町は、水深が1メートル前後、冬には50センチ前後まで下がっていたと記している。

なぜ消えたのか — 川から切り離されてから干拓まで
直接のきっかけは、明治の淀川改修で宇治川と切り離されたことだった。国土交通省淀川河川事務所の年表は、1896年から1910年の淀川改良工事で宇治川と巨椋池を分け、巨椋池を締め切ったと記す。「水土の礎」によると、瀬田川の南郷洗堰が明治38年(1905)に完成して宇治川の水量を調節できるようになり、巨椋池が大水を受け止める役割は要らなくなった。宇治川に新しい水路が造られ、明治39年に工事が終わると、巨椋池は川から離れた独立した湖になった。切り離された年は資料によって幅があり、京都府レッドデータブックは1900〜1903年の淀川の大規模改修、久御山町は明治40年の宇治川改修の完成としている。
切り離されたことで、水の入れ替わりが止まった。「水土の礎」によると、周りから生活排水や農業排水が流れ込んで水質が急に悪くなり、底にたまった泥から蚊が大量に発生して、マラリアも出た。昭和2年(1927)には、巨椋池沿岸の19か村がマラリアの流行指定地とされている。久御山町は、池の水位が下がって水草が茂ったと記す。魚も、漁獲も減っていった。
干拓の構想は明治の初めからあったが、漁業権の補償など、沿岸の利害の調整が難しかったという。昭和に入って、食料の増産と農村での働き口づくりが重く見られ、事業が動き出した。「水土の礎」によれば、干拓地は沿岸の農漁民に払い下げられ、周辺の農家約500戸が、それまでの2倍の約1.6ヘクタールを持つ自作農になった。

秀吉の太閤堤は、巨椋池の何を変えたのか
巨椋池の形を大きく変えた最初の工事は、豊臣秀吉の伏見城築城にともなう築堤だった。文化庁の文化遺産オンラインは、秀吉が文禄3年(1594)に完成した伏見城の築城をきっかけに、宇治川・淀川などの付け替えを含む大規模な治水工事を行ったと説明する。宇治川はそれまで、宇治橋の下流から分かれて北西に流れ、巨椋池に合流していた。工事で宇治川は北へ流れる流路にまとめられ、伏見城下へ導かれた。
淀川河川事務所は、秀吉が太閤堤・槇島堤・上島堤・下島堤・向島堤などの堤を築いたと記す。「水土の礎」によると、宇治川は槇島堤によって北へ回り、巨椋池とのつながりは淀のあたりだけになった。京都市の駒札によると、一つの大きな池だった巨椋池は、秀吉の築堤のあと大池・二ノ丸池・中内池・大内池などに分かれた。久御山町は、池の8割を占めた大池で漁ができたのは東一口村ほか2町村だけだったと記している。
一方で、秀吉は池を川から完全には切り離さなかった。「水土の礎」は、大水の時に水を受け止める巨椋池が、下流の大坂や河内平野を守る役割を持っていたためだとみている。
宇治川を導いた先の伏見は、港町として育った。同じ資料によると、伏見はその後、高瀬川の開削などで整えられ、幕末まで西国と京都を結ぶ港として重要な役割を果たした。淀川河川事務所によると、宇治川と濠川の合流点には、昭和4年(1929)3月31日に完成した三栖閘門が今も残る。
秀吉の堤の一部は、宇治市で見つかっている。宇治川太閤堤跡は宇治市莵道丸山・宇治乙方・槇島町大島にまたがり、2009年7月23日に国の史跡になった。文化遺産オンラインによると、発掘では直線的に約400メートル続くとみられる護岸と、水の勢いを弱める「石出し」がほぼ90メートルおきに3か所見つかった。16世紀末に築かれたあと氾濫で埋まり、近代に新しい堤防ができて川の外になったため、よい状態で残った。


干拓のあと、この土地で何が起きたか
国土交通省淀川河川事務所の記録によると、昭和28年(1953)9月の台風13号では、木津川と桂川の大洪水がほぼ同時に合流して宇治川の水位が上がり、向島の観月橋下流約2キロメートルの左岸が約450メートルにわたって切れた。浸水は旧巨椋池干拓田と佐山村・御牧村一帯の2,880ヘクタールに及び、約25日間水につかった。同事務所の年表は、1939年から1954年の淀川修補工事で、向島の左岸の堤を計画の高さまで補強したと記している。
これは当時の被害の記録で、今の個々の土地の安全を示すものではない。今の浸水の危険を知りたい時は、京都市・宇治市・久御山町が公開しているハザードマップと、国土交通省のハザードマップポータルサイトを確かめる。
古地図と今の地図を、どう重ねるか
巨椋池の輪郭は、無料で見られる地図で今の地図に重ねられる。
- 国土地理院の地理院地図で「明治期の低湿地」を表示する。明治期に作られた2万分1の地図から、河川・湖沼・湿地・水田などの範囲を抜き出したデータで、干拓前の巨椋池は水面として現れる。国土地理院は、これらの地図には基準点網が整う前に測られたものがあり、場所によってはかなりの誤差を含むと注意している。
- 国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」で空中写真を探す。国土地理院は昭和20年代から国土を繰り返し撮影していて、誰でも閲覧と400dpiでのダウンロードができる。干拓田は整然と区画された農地として造られたので、戦後の写真で、区画の向きや水路の並びが周りの田とどこで変わるかを見比べる。
- 埼玉大学教育学部の谷謙二氏が作った「今昔マップ on the web」は、明治期以降の新旧の地形図を切り替えて表示できる。京阪神圏の地図で、池のあった時期と干拓後を左右に並べる。
- 京都府レッドデータブックの巨椋池のページには、5万分の1地形図の現在の図と、大正6年発行の図が並べて載っている。
重ねて線が合わない所は、地図の作られた年と縮尺を書き添えて「推定」として残す。巨椋池は秀吉の築堤のあと大池・二ノ丸池などに分かれていたので、どの年の池を見ているかを先に決めておくと比べやすい。

池の名残りは、現地のどこで確かめられるか
京都市伏見区向島には、京都市の駒札「巨椋池(二ノ丸池)址」が立つ。久御山町東一口には、漁業権をまとめた山田家の屋敷(旧山田家住宅、国の登録有形文化財)が残る。宇治市の宇治川太閤堤跡は、秀吉が宇治川の流れを北へまとめた工事の堤の遺構だ。伏見区の三栖閘門は、大正の築堤で行き来できなくなった伏見港と宇治川の間を、船が通れるように造られた施設だ。
地名では、巨椋インターチェンジのほか、漁業の村だった「東一口」が手がかりになる。どこまでが池で、どこからが岸だったかは、上の地図で確かめてから歩くと、道の高さや水路の向きと結びつけやすい。

関連リンク
今の浸水の危険は、各自治体の最新の情報で確かめたい。
あなたの住所の周りに、どんな痕跡が残っているか。→ 痕跡マップで痕跡濃度を測ってみる
巨椋池の干拓の周りには、京都市伏見区の痕跡が4件ある。
京都市伏見区の痕跡 4件をひらく →参考・出典
14件出典に基づいて掲載している
- 京都府 巨椋池干拓事業―水土の礎
suido-ishizue.jp - 巨椋池|京都府レッドデータブック2015
pref.kyoto.jp - 巨椋池(二ノ丸池)址|【京都市公式】京都観光Navi
ja.kyoto.travel - 豊かな暮らしを支える巨椋池干拓地:農林水産省
maff.go.jp - 追憶の巨椋池 | 久御山町ホームページ
town.kumiyama.lg.jp - 宇治川太閤堤跡 文化遺産オンライン
online.bunka.go.jp - 太閤堤と宇治のまちづくり - 宇治市公式ホームページ
city.uji.kyoto.jp - city.uji.kyoto.jp
- 三栖閘門の歴史
kkr.mlit.go.jp - 三栖閘門の歩み
kkr.mlit.go.jp - 昭和28年(1953年)台風13号 詳細解説
kkr.mlit.go.jp - 明治期の低湿地データ | 国土地理院
gsi.go.jp - 空中写真 | 国土地理院
gsi.go.jp - 今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷謙二(2000~2022年)
ktgis.net
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