巨椋池の干拓(京都府下最大の淡水湖が消えた国営干拓地)|何があった場所か
宇治川・木津川・桂川が合流する京都盆地の最低地に広がっていた、周囲約16キロ、水面積約794ヘクタールの淡水湖。蓮の名所としても知られたが、昭和8年から16年の国営干拓事業で634ヘクタールの農地となり、水面は消えた。跡地には田園と向島の住宅地が広がる。
時のながれ
- 奈良時代 — 万葉集に巨椋の入り江と詠まれた水郷で、近世にいたるまで文人墨客がその景観を愛でた。
- 文禄3年(1594) — 豊臣秀吉の伏見城築城にともなう築堤で、流れ込んでいた宇治川が北へまとめられて伏見城下へ導かれ、池は大池・二ノ丸池などに分かれた。
- 明治後期 — 淀川の大規模改修で宇治川と切り離され、独立した池になった。水位が下がって水草が繁茂し、水質の悪化と漁獲の減少が進んだ。
- 昭和8年〜16年(1933〜1941) — 国内で初めての国営干拓事業として実施。宇治川側に築いた排水機場と排水ポンプ10台で水を汲み出し、水面積約794ヘクタールの池が634ヘクタールの農地に変わった。
- 昭和28年(1953) — 台風13号で観月橋下流の宇治川左岸が約450メートル破堤し、旧干拓田を含む一帯2880ヘクタールが約25日間水につかった。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 干拓前の規模が周囲約16キロメートル・水面積約794ヘクタールであったことは、京都府レッドデータブック2015と久御山町の公式ページの双方で確認した。
- 1933年から1941年の国営干拓により634ヘクタールの農地になったことは、農林水産省の水土里電子博物館と京都府レッドデータブック2015で確認した。
- 万葉集に巨椋の入り江と詠まれたこと、蓮の名所として蓮見舟の遊宴でにぎわったことは、京都市の駒札解説を掲載する京都観光Naviで確認した。
- 豊臣秀吉の築堤によって、巨椋池へ合流していた宇治川が北へまとめられ伏見城下へ導かれたことは、文化庁の文化遺産オンラインの宇治川太閤堤跡で確認した。
- 昭和28年の台風13号で観月橋下流の宇治川左岸が約450メートル破堤し、旧干拓田を含む一帯2880ヘクタールが約25日間浸水したことは、国土交通省近畿地方整備局淀川河川事務所の洪水記録で確認した。
- 干拓地が京都市伏見区南部から宇治市西部・久御山町北東部にまたがることは、水土の礎の干拓事業の解説で確認した。
そのため、このページではこうしています
- 座標は、かつての二ノ丸池にあたる京都市伏見区向島二ノ丸町付近の代表点である。巨椋池は伏見区のほか宇治市・久御山町にまたがる広がりを持っていたため、一点には絞れない。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 干拓後の地盤沈下に関する数値は、公的資料まで到達できなかった。
- 干拓事業の完了年は、農林水産省が1941年、久御山町の公式ページと水土の礎の事業解説が昭和16年とする一方、水土の礎の別ページは昭和18年完成と記しており、食い違いがある。
- 宇治川と池が完全に分離した年次も、京都府レッドデータブック2015が1900年から1903年の淀川大規模改修、水土の礎が明治39年の工事完了、久御山町が明治40年の宇治川改修完成と、資料によって幅がある。
参考・出典
- 巨椋池(二ノ丸池)址|京都市公式 京都観光Navi
京都市観光協会(京都市公式観光サイト) - 巨椋池|京都府レッドデータブック2015
京都府(環境部自然環境保全課) - 豊かな暮らしを支える巨椋池干拓地
農林水産省(農村振興局整備部設計課) - 追憶の巨椋池
久御山町(公式サイト) - 昭和28年(1953年)台風13号 詳細解説
国土交通省 近畿地方整備局 淀川河川事務所 - 宇治川太閤堤跡
文化庁 文化遺産オンライン - 京都府 巨椋池干拓事業―水土の礎
一般社団法人 農業農村整備情報総合センター
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
近くの痕跡
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