羅城門跡(平安京の正門・今は児童公園の石碑だけが残る)|何があった場所か
延暦13年(794)の平安京造営にともない、朱雀大路の南端に置かれた都の正門の跡。弘仁7年(816)の大風で倒壊し、再建後も天元3年(980)の暴風で倒れ、以後は再建されなかった。今は唐橋羅城門町の小さな児童公園に、明治28年建立の石碑が立つ。
時のながれ
- 延暦13年(794) — 平安京の造営にともない、朱雀大路の南端に都の正門として建てられたとされる。北端の朱雀門と相対する位置にあった。
- 弘仁7年(816) — 8月16日、大風により倒壊した。その後まもなく再建されている。
- 天元3年(980) — 7月9日の暴風雨で再び倒壊し、以後は再建されなかった。
- 治安3年(1023) — 藤原道長が法成寺の造営にあたり、羅城門の石を運ばせた。この頃には礎石がわずかに残る程度まで荒れていたと考えられている。
- 明治28年(1895) — 3月、平安遷都千百年紀念祭の事業として、京都市参事会が石標 羅城門遺址 を建てた。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 京都市のいしぶみデータベースで、石標 羅城門遺址 が南区唐橋羅城門町の児童公園内にあり、明治28年(1895)3月に京都市参事会によって建立されたことを確認した。碑の高さは284センチメートルである。
- 同データベースは、石標の位置を北緯34度58分45.4秒・東経135度44分33.3秒(世界測地系)と公表している。
- 京都市歴史資料館フィールド・ミュージアム京都の解説によれば、羅城門は朱雀大路の南端に建つ都の正門で、幅十丈六尺・奥行二丈六尺・高さ約七十尺、正面柱間七間のうち中央五間に扉が入る重層の門であった。木部は朱塗り、壁は白土塗りであったという。
- 弘仁7年(816)8月16日に大風で倒壊して再建されたこと、天元3年(980)7月9日の暴風雨で再び倒壊し以後再建されなかったことは、フィールド・ミュージアム京都と、コトバンク所収のブリタニカ国際大百科事典および日本大百科全書の記述が一致した。
- 明治28年の石標の位置は、延暦15年(796)の創建以来位置が動いていないとされる東寺の南門を基準点として計測し、朱雀大路の中心すなわち羅城門の中心を定めたものであると、フィールド・ミュージアム京都に記載がある。
- 東寺と西寺が羅城門をはさんで東西に置かれたことは、文化庁の文化遺産オンライン所収の史跡 西寺跡 の解説で確認した。
- 公園の所在地は、京都市の都市計画一覧表 公園 でも確認した。街区公園が南区唐橋羅城門町にあり、面積は約0.04ヘクタールと記載されている。
- 芥川龍之介の小説の表題は 羅生門 で、史跡名の羅城門とは表記が異なる。日本大百科全書は、羅生門と書いてらしょうもんと読まれるようになったのは後世であるとしている。
そのため、このページではこうしています
- 座標は、京都市のいしぶみデータベースが公表する石標の位置座標を十進法に換算したものである。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 羅城門の遺構は考古学的にまだ発見されていないと、フィールド・ミュージアム京都に明記されている。石標の位置は明治28年の実測にもとづいて定められた地点であり、門が建っていた場所そのものが掘り出されたわけではない。
- 羅城門に鬼が棲んだと伝わる話や、渡辺綱が門の上から伸びた腕を切り落としたと伝わる話は、フィールド・ミュージアム京都に逸話として紹介されているが、史実を裏づける資料には到達できなかった。
- 門の規模のメートル換算は資料によって幅がある。京都市のいしぶみデータベースとフィールド・ミュージアム京都は幅約35メートル・奥行約9メートル、京都市公式の京都観光Naviは正面33メートル・奥行8メートルとする。尺貫法による幅十丈六尺・奥行二丈六尺という数値自体は各資料で共通している。
- 公園の名称も資料によって異なる。京都市の都市計画一覧表とフィールド・ミュージアム京都は唐橋花園児童公園、現地の園名板を紹介する資料や地図サービスは唐橋羅城門公園と表記する。
参考・出典
- 都市史05 羅城門(フィールド・ミュージアム京都)
京都市(京都市歴史資料館) - MI004 羅城門遺址(いしぶみデータベース)
京都市(京都市歴史資料館) - 羅城門跡|京都市公式 京都観光Navi
京都市公式観光サイト 京都観光Navi - 京都市:公園(都市計画一覧表)
京都市 - 西寺跡 文化遺産オンライン
文化庁 文化遺産オンライン - 羅城門とは? 意味や使い方
コトバンク(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・日本大百科全書ほか所収)
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
近くの痕跡
- 西寺跡(東寺と対をなした官寺の跡・唐橋西寺公園)(地の痕跡・約464m)
- 六条河原(処刑・晒しの場とされた鴨川の河原)(死の痕跡・約2.7km)
- 本能寺跡(本能寺の変の舞台・現在の寺町御池とは別の旧地)(戦の痕跡・約3.2km)
- 西高瀬川(文久3年開削の木材運河・千本三条の材木町)(水の痕跡・約3.3km)