西寺跡(東寺と対をなした官寺の跡・唐橋西寺公園)|何があった場所か
平安京の造営にともない、羅城門をはさんで東寺と対をなす官寺として建てられた西寺の跡。正暦元年(990)の火災で大きく衰え、天福元年(1233)に塔が焼けて以後は再建されなかった。講堂跡の土壇が唐橋西寺公園に高まりとして残り、国の史跡に指定されている。
時のながれ
- 796年頃 — 平安京の造営にともない、羅城門の西で西寺の造営が始まったとされる。
- 832年 — 講堂が完成したとされる。この講堂の跡が、現在まで残る土壇にあたる。
- 正暦元年(990) — 火災で西寺が焼け、大きく衰えた。講堂の基壇上面からは焼土と焼瓦が見つかっている。
- 天福元年(1233) — 残っていた塔が焼失し、以後は再建されなかった。
- 大正10年(1921) — 講堂跡の土壇を中心に国の史跡に指定された。昭和41年(1966)には周辺部分が追加指定された。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 羅城門をはさんで東寺と西寺が建てられたこと、講堂跡が発掘後に埋め戻されて唐橋西寺公園の中に土壇として残ることは、京都市文化財保護課の文化財ポータルで確認した。
- 造営開始から塔の焼失までの年次は、京都市文化財保護課の現地説明会資料に載る西寺年表で確認した。796年頃に造営開始、832年に講堂完成、990年に西寺焼亡、1233年に塔が焼失して以後再建されず、とある。
- 正暦元年(990)の西寺焼亡で講堂が焼けたことは、京都市文化財保護課の記者発表資料で確認した。講堂の基壇上面に焼土と焼瓦が堆積していたという発掘所見がある。
- 大正10年3月3日に国の史跡に指定されたことと、在来の土壇が講堂跡と判明したことは、文化庁の文化遺産オンラインで確認した。朱雀大路をはさんで東寺とほぼ左右対称の伽藍配置であることは、京都市文化財保護課の発掘調査速報で確認した。
- 石標 史蹟西寺阯 が大正15年(1926)に京都市によって建てられたことは、京都市のいしぶみデータベースで確認した。
- 東寺(教王護国寺)が世界文化遺産 古都京都の文化財 の構成資産であることは、京都府の公式ページで確認した。
そのため、このページではこうしています
- 座標は、京都市のいしぶみデータベースが示す石標の位置(北緯34度58分50.4秒/東経135度44分15.9秒)に合わせている。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 保延2年(1136)の火災については、京都市のいしぶみデータベース以外の資料まで到達できなかった。
- 五重塔跡が令和3年(2021)に追加指定されたという記述は京都市の発掘調査速報にあるが、告示そのものまでは到達できなかった。
- 寺域の広さについて、京都観光Naviは200メートル四方とし、京都市文化財保護課の発掘調査資料は東西二町(約250メートル)・南北四町(約510メートル)とする。発掘成果にもとづく後者が新しい。
- 公園の名称について、京都市文化財保護課の資料は唐橋西寺公園とし、京都観光Naviと京都市のいしぶみデータベースは西寺児童公園とする。
参考・出典
- 西寺跡 文化遺産オンライン
文化庁(文化遺産オンライン) - 史跡西寺跡・唐橋遺跡 現地説明会資料(令和元年10月26日)
京都市文化市民局文化財保護課(京都市公式) - 京都市内の埋蔵文化財 発掘調査速報 No.019 史跡西寺跡の発掘調査
京都市文化市民局文化財保護課(京都市公式) - 文化財の現場からシリーズvol.2 眠りから覚めたコンド山 史跡西寺跡の発掘調査
京都市文化財保護課(京都市公式) - MI003 西寺阯(いしぶみデータベース)
京都市(フィールド・ミュージアム京都) - 西寺跡
京都市観光協会(京都市公式・京都観光Navi) - 世界遺産(世界文化遺産) 教王護国寺(東寺)
京都府(公式)
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
近くの痕跡
- 羅城門跡(平安京の正門・今は児童公園の石碑だけが残る)(地の痕跡・約464m)
- 六条河原(処刑・晒しの場とされた鴨川の河原)(死の痕跡・約3.0km)
- 西高瀬川(文久3年開削の木材運河・千本三条の材木町)(水の痕跡・約3.1km)
- 本能寺跡(本能寺の変の舞台・現在の寺町御池とは別の旧地)(戦の痕跡・約3.2km)