城南宮の方除と鳥羽離宮跡|何があった場所か
京都市伏見区中島鳥羽離宮町に鎮座する城南宮は、方除の大社として知られる。京都府観光連盟は、平安遷都の際に都の南に国の守護神として創建された神社で、方除の神として信仰を集めていると記す。京都市が公開する史料京都の歴史も、方除けの神として知られているとした上で、創建は諸説あり、平安京遷都時に王城守護のため創祀されたとも、城南寺の鎮守神として創祀されたともいわれるとして、一つに絞っていない。城南宮自身は、延暦13年(794)の平安京遷都に際して国常立尊を八千矛神と息長帯日売尊に合わせ祀ったのが創建と伝え、社名は平安城の南に鎮まる宮の意味であるとする。この地が方位と結びついた背景には、平安時代後期の巨大な離宮がある。京都市埋蔵文化財研究所は、鳥羽離宮が白河天皇の後院として応徳3年(1086)に造営が開始され、孫の鳥羽天皇まで約70年続いたとする。規模は資料により幅があり、同研究所は東西1.2キロメートル、南北1.0キロメートル、面積約120ヘクタールとし、京都市の歴史散策マップは東西約1.5キロメートル、南北約1キロメートル、約180町(180万平方メートル)とする。城南宮はその離宮に囲まれる位置にあり、同研究所は城南宮を馬場殿跡に想定し、鳥羽離宮鎮守の神としてまつられ、現在は方除の神として知られていると説明する。城南宮は、離宮の御殿が熊野詣の精進所や方違の宿所にも充てられ、上皇や貴族が方位の災厄から無事であるよう祈ったことに方除の由来を求めている。離宮の跡は昭和53年(1978)7月17日に国の史跡である鳥羽殿跡に指定された。文化庁の解説によれば、指定の対象は秋の山の南で寝殿造の舎屋遺構が確認された南殿跡である。その秋の山は城南宮の西側、国道1号線を越えた先にある小山で、同研究所は和歌にも詠まれた築山であり、広大な南殿の園池をしのばせる唯一の築山遺構と述べる。一帯は鳥羽離宮跡公園として整備されている。城南宮の神苑には、この秋の山に対して春の山が新しく造られている。城南宮は明治10年(1877)に式内社真幡寸神社として認定されて社名を改め、昭和27年(1952)に再び城南宮と称した。真幡寸神社は現在、城南宮境内の摂社として祀られている。
時のながれ
- 延暦13年(794) — 城南宮は、平安京遷都に際し国常立尊を八千矛神と息長帯日売尊に合わせ祀ったのが創建であると伝える。
- 応徳3年(1086) — 京都市埋蔵文化財研究所は、白河天皇の後院として鳥羽離宮の造営が開始されたとする。
- 応徳4年(1087) — 文化庁の史跡解説は、まず南殿が造営されたとする。
- 保延3年(1137) — 京都市の資料は、鳥羽上皇の御願により東殿に安楽寿院が創建されたとする。
- 承久3年(1221) — 京都市の資料は、後鳥羽上皇が流鏑馬揃えと称して近国の武士を城南寺に集め、承久の乱が起きたとする。
- 明治10年(1877) — 京都市の資料は、式内社真幡寸神社として認定され社名が改められたとする。
- 昭和27年(1952) — 京都市の資料は、再び城南宮と称するようになったとする。
- 昭和35年(1960) — 京都市埋蔵文化財研究所は、鳥羽離宮跡の発掘調査がこの年から始まったとする。
- 昭和53年(1978) — 文化庁の国指定文化財等データベースは、7月17日に南殿跡が国の史跡 鳥羽殿跡に指定されたとする。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 文化庁の文化遺産オンラインの鳥羽殿跡の項は、指定年月日を1978年7月17日とし、指定の対象を秋の山の南で寝殿造の舎屋遺構が確認された南殿跡とする。
- 同じ解説は、鳥羽殿を白河・鳥羽・後白河の3代の上皇の院政の中心舞台となった離宮とし、鎌倉時代から衰退に向かい南北朝内乱の兵火でほとんど焼失したとする。
- 京都市が公開する史料京都の歴史の都市史07鳥羽離宮は、鳥羽離宮を白河天皇が創建した譲位後の御所とし、敷地を約180町(180万平方メートル)、使用時期を14世紀頃までとする。
- 同じ資料の城南宮の項は、方除けの神として知られているとした上で、創建は諸説ありとして平安京遷都時の創祀説と城南寺の鎮守神としての創祀説を併記する。
- 京都市と京都市埋蔵文化財研究所が発行した京都歴史散策マップ鳥羽離宮跡は、公園北辺の土盛りを築山の遺構である秋ノ山とし、城南宮境内には春ノ山が新しく造られているとする。
- 京都市埋蔵文化財研究所のリーフレット京都No.202は、離宮の規模を東西1.2キロメートル、南北1.0キロメートル、面積約120ヘクタールとし、秋の山を南殿の園池をしのばせる唯一の築山遺構とする。
- 城南宮のご祭神と歴史のページは、創建を延暦13年(794)と伝え、城南離宮の御殿が熊野詣の精進所や方違の宿所に充てられたことを方除の由来として説明する。
- 京都府観光連盟のページは、平安遷都の際に都の南に国の守護神として創建された神社で、方除の神として信仰を集めているとする。
そのため、このページではこうしています
- 規模と造営年は資料により幅があるため、どれか一つを採らず、資料ごとの数値を並べて示した。
- 創建は、城南宮が伝える年と、京都市が諸説ありとする立場を分けて示した。
- 裏鬼門とする説明は公的資料で裏づけが取れなかったため、都の南という位置づけだけを記した。
- 秋の山には幕末の戦いに関わる石碑もあるが、離宮の造営と方除の信仰を中心にまとめた。
- 国の史跡の指定範囲が南殿跡であることは、城南宮の境内と混同しないよう明示した。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 城南宮を京都御所の裏鬼門を守る社とする説明は旅行情報サイトなどに見られるが、文化庁・京都市・京都府の公開資料および城南宮の由緒には、対応する記述を見つけられなかった。
- 離宮の御殿が方違の宿所に用いられたことを直接示す平安期の日記などの一次史料には当たれておらず、城南宮の説明と一般向けの歴史書の記述までしか追えていない。
- 鳥羽離宮跡公園の面積や開園年といった公園としての諸元を示す京都市の公開資料は見つけられなかった。
- 秋の山そのものの緯度経度を示す資料はなく、地名検索でも該当がなかったため、座標は城南宮の位置を採った。
- 造営の開始年は、京都市と京都市埋蔵文化財研究所が応徳3年(1086)とするのに対し、文化庁の史跡解説は応徳4年(1087)にまず南殿が造営されたとする。
- 離宮の規模は、京都市埋蔵文化財研究所のリーフレットが約120ヘクタール、京都市の資料が約180町(180万平方メートル)、文化庁の史跡解説が池を含む広さ約100ヘクタールとし、一致しない。伏見区役所の解説は東西約1.2から1.5キロメートルと幅を持たせる。
- 発掘調査の開始年は、京都市と京都市埋蔵文化財研究所が昭和35年(1960)とし、文化庁の史跡解説は昭和33年以来続いているとする。
- 創建は、城南宮が延暦13年(794)と伝えるのに対し、京都市の資料は諸説ありとして城南寺の鎮守神としての創祀説も並べる。
- 安楽寿院の創建は、京都市の資料が保延3年(1137)、京都市埋蔵文化財研究所のリーフレットが保延元年(1137)とし、西暦は同じだが元号が食い違う。
参考・出典
- 鳥羽殿跡
文化庁 文化遺産オンライン - 都市史07 鳥羽離宮
京都市 - 京都歴史散策マップ 鳥羽離宮跡
京都市・京都市埋蔵文化財研究所 - リーフレット京都 No.202 鳥羽離宮跡を歩く
京都市埋蔵文化財研究所 - ご祭神と歴史
城南宮 - 熊野詣出立の地
城南宮 - 城南宮
京都府観光連盟 - 伏見区民史跡・名所めぐり スポット一覧
京都市伏見区役所
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
近くの痕跡
- 鳥羽伏見の戦い 勃発地(小枝橋・鳥羽離宮跡公園)(戦の痕跡・約308m)
- 伏見港と三栖閘門(水の痕跡・約3.1km)
- 羅城門跡(平安京の正門・今は児童公園の石碑だけが残る)(地の痕跡・約3.2km)
- 西寺跡(東寺と対をなした官寺の跡・唐橋西寺公園)(地の痕跡・約3.5km)