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歴史の痕跡

長島一向一揆はどこで起きたのか — 木曽三川の河口に残る長島城跡と、川の底の願証寺跡

木曽川・長良川・揖斐川が伊勢湾へ注ぐ河口の低地、いまの三重県桑名市長島町だ。一揆は1570年に始まり、信長の攻撃は1571年から1574年まで3回に及んだ。本城の長島城跡はいま小学校と中学校の敷地になり、拠点だった願証寺の跡は明治期の河川改修で長良川の底にある。

2026-09-15 | 執筆・編集:痕跡マップ編集部
目次(7項目)

長島一向一揆の舞台は、木曽川・長良川・揖斐川が伊勢湾へ注ぐ河口の低地にある。伊勢長島、いまの三重県桑名市長島町だ。桑名市は、この一揆が1570(元亀元)年に始まり、織田信長の攻撃は1571年から1574年まで3回にわたったと記す。本城となった長島城の跡はいま小学校と中学校の敷地になり、拠点だった願証寺の跡は長良川の底にある。

舞台は、三本の川が網の目になる河口だった

国土交通省中部地方整備局の木曽川下流河川事務所は、木曽川・長良川・揖斐川の三本の川が網目のようにつながっているため、濃尾平野では雨が降るたびに水があふれ出し、人々は昔から多くの洪水に苦しめられてきたと記す。同じ事務所によれば、いまのような地形ができたのは約3千年前といわれ、それから長いあいだ、川は自然の流れのまま、たえず場所を変えていた。

集落を堤防でぐるりと囲む「輪中」が広がるのは、資料の上ではもっと後になる。事務所は、輪中を「集落をぐるりと堤防で囲んだところ」と説明したうえで、木曽川左岸の尾張の国を洪水から守るために1608年に「御囲堤」が築かれ、その長さが犬山から弥富までの約48キロだったと記す。輪中堤が作られるようになったのも、この江戸時代前期のこととして書かれている。一揆の当時、長島がどこまで堤に囲まれていたのかは、資料からは分からない。

約3千年前の地形の成り立ちから、1608年の御囲堤、江戸時代前期の輪中堤までを並べた年表
約3千年前の地形の成り立ちから、1608年の御囲堤、江戸時代前期の輪中堤までを並べた年表

分かるのは、この土地が川と川のあいだの低いところにあって、川の形そのものが動き続けていたということである。

願証寺の跡は、いま長良川の底にある

桑名市は、願證寺について、戦国時代に織田信長と長島の一向宗門徒の間で起こった一向一揆の舞台となった寺として、悲惨な歴史を今に伝えていると記す。そのうえで、もともと寺は杉江(長島町杉江)にあり、一向一揆の時には長島城を拠点として織田方と戦った、と続ける。

そして、こう書いている。

杉江にあった寺跡は明治期の河川改修工事によって、長良川の川底に沈んでしまいました。

三重県の散策案内「城下町長島の歴史を訪ねて」も、同じことを別の言い方で記している。「長島一向一揆の頃の長島願証寺は、現在、長良川の底(杉江地区)になっている」。

寺跡を沈めた側の記録も残っている。木曽川下流河川事務所は、明治政府が河川や港湾の工事を行うためオランダから10人の技師団を招いたこと、その一人ヨハニス・デ・レイケが明治11年から木曽三川流域を山から海までじっくりと調べて回り、その結果をもとに改修計画を作成したことを記す。そして明治20年から25年間をかけて三川分流工事が行われ、木曽三川はほぼ現在の姿になったとする。計画の主な内容として並んでいるのは、木曽三川を完全分流する、佐屋川を廃川にする、高須輪中に長良川新川を通す、油島洗堰を完全に締切る——といった項目だ。川の位置そのものを引き直す工事である。

桑名市が書く「明治期の河川改修工事」がこの三川分流工事を指すのかどうかは、公的な資料からは分からない。一揆の拠点だった寺の跡は、いま川の下にある。→ 願証寺跡(長良川の底になった杉江)

ヨハニス・デ・レイケの調査から明治20年からの三川分流工事までの流れと、計画の主な内容を並べた図
ヨハニス・デ・レイケの調査から明治20年からの三川分流工事までの流れと、計画の主な内容を並べた図

始まりは、軍用金の要求だった

桑名市は、一揆の始まりをこう記す。1570(元亀元)年、長島願証寺を中心とした浄土真宗門徒が、織田信長の拠点であった小木江城で、信長の弟信興を自害に追い込んだことから始まった。

背景として同じ資料が挙げるのは、金の話である。織田信長が永禄11(1568)年に上洛をした際、本願寺に「矢銭」といわれる軍用金5,000貫(米1万石相当=約1,500,000kg)を要求した。当初、本願寺はこれを支払って信長との関係を穏便にすまそうとしたが、その後も信長が本願寺に圧力をかけ続けてきたことで、本願寺側も三好三人衆や浅井・朝倉氏などと連携を図り、反信長勢力の一翼を担うようになった。

本願寺は全国各地の門徒たちに檄文を送り、これに呼応した桑名周辺の門徒たちは長島願証寺に続々と集まって、願証寺証意を盟主として一揆を起こした——というのが、桑名市が書く筋道である。

長島一向一揆の年表。1568年の軍用金の要求から、1975年の殉教の碑の建立までを並べた図
長島一向一揆の年表。1568年の軍用金の要求から、1975年の殉教の碑の建立までを並べた図

攻撃は三度、1571年から1574年まで

桑名市の記述は短い。

信長の攻撃は、1571年から1574年まで3回にわたり、当初、織田軍を苦しめましたが、信長包囲網が崩れたこともあり、願証寺側の戦況が厳しいものになりました

戦いの範囲は長島の中だけではなかった。同じ資料は「この一揆は、長島地区に限った戦いではありませんでした。大鳥居や柳ケ島といった揖斐川の西岸の地域でも戦いが行われました」と書いている。

三重県の案内は、長島城の側からこの時期を一文で記す。「元亀・天正年間(16世紀後半)には一向宗徒がここを攻略し、この城を中心に織田信長軍と戦ったが、敗れて落城した」。

三度の攻撃がそれぞれいつ始まっていつ終わったのか、最後の攻防が何月何日だったのかは、桑名市・三重県の資料には日付で示されていない。

記録された数

亡くなった人の数について、桑名市はこう書いている。

結果、一揆勢の死者は2万人にのぼったといわれており

「2万人だった」ではない。「2万人にのぼったといわれており」である。市自身が、伝聞の形で示している。

この数の出どころとしてよく挙げられるのは『信長公記』である。版本の画像は国立国会図書館や国立公文書館のデジタルアーカイブにあるが、該当箇所の原文は未確認だ。

数が伝聞のまま残っている一方で、弔いの場のほうは年が分かっている。三重県の案内は、昭和50年(1975)に一向一揆の400年の追悼法要が願証寺で行われ、「長島一向一揆殉教の碑」も建立されたと記す。碑が建ったのは戦国ではなく、昭和である。

いま長島に残っているもの

三重県は「城下町長島の歴史を訪ねて(全行程約5km)」という散策案内を出している。そこに並ぶ13か所のうち、一揆につながるものは次のとおりだ。

長島城跡 — 桑名市は、寛元3年に藤原道家が館を築いた後、長島一向一揆の本城、長島藩の居城を経て、現在は長島中部小学校・中学校の敷地になっていると記す。三重県の案内は、その間を埋める。寛元3年(1245)に前関白藤原道家が長島に流されている時に西外面に館を築き、文明14年(1482年)に伊藤重晴が安濃郡から来てこの地方を占有し、この館跡に城砦を作った。城跡地に建っているのは、いま学校である。→ 長島城跡のスポットページ

長島城跡が、寛元3年(1245)の館から長島中部小学校・中学校の敷地になるまでの経過の年表
長島城跡が、寛元3年(1245)の館から長島中部小学校・中学校の敷地になるまでの経過の年表

校庭の大松 — 桑名市は、校内の「大松」を天然記念物であり市の指定文化財だとし、クロマツの大樹で樹齢300年以上と推定され、長島城があった当時は本丸の西南にあったと記す。三重県の案内は、樹高約15m、胸高円周2.8mという寸法を添える。樹齢が推定どおり300年ほどなら、この松が芽を出したのは1574年の落城より百年以上あとになる。城の時代を見ていた木かどうかは、推定の幅しだいである。

蓮生寺の山門 — 桑名市は、長島城の大手門が明治9年に中町の蓮生寺山門となり、現在も残っていると記す。門の瓦には当時の藩主・増山家の家紋が見られ、建設時よりは小さくなっているが、長島城最後の建造物として貴重なものだという。城の敷地は学校になり、門だけが寺へ移って残った。

願證寺と長島一向一揆殉教の碑 — いまの願證寺は長島町又木にある。三重県の案内は、長島一向一揆の後、寛永11年(1634)に旧願証寺門徒のため又木に祐泉寺が建てられて桑名願証寺の通寺となり、承応年中(1650頃)に寺号を誓来寺と改め、正徳5年(1715)には西本願寺の末寺誓来寺兼帯願証寺となり、明治9年(1876)に正式に願証寺を名乗ることになった、と年を追う。一揆から三百年あまりのあいだに、この寺の名は三度替わっている。→ 願證寺と長島一向一揆殉教の碑

いまの願證寺が、寛永11年(1634)の祐泉寺から明治9年(1876)に願証寺を名乗るまでの寺名の移り変わりの年表
いまの願證寺が、寛永11年(1634)の祐泉寺から明治9年(1876)に願証寺を名乗るまでの寺名の移り変わりの年表

明治9年という年が、二度出てくる。長島城の大手門が払い下げられて寺の山門になった年と、又木の寺が願証寺の名を名乗った年が、同じ年である。

長島町に残るものの位置図。長島城跡・願證寺と殉教の碑・長良川の底の願証寺跡を実際の座標で示し、木曽三川を概略で描いた図
長島町に残るものの位置図。長島城跡・願證寺と殉教の碑・長良川の底の願証寺跡を実際の座標で示し、木曽三川を概略で描いた図

資料で分かること、分からないこと

確かめられたこと。

確かめられなかったこと。

三重県の案内に載る13か所には、光栄寺(一揆の際に石山本願寺から寺侍として送り込まれた飯田九蔵を開祖とする寺)や、洪水のときに逃げ込むための「水屋」「助命壇」も並んでいる。この土地の記録は、戦の側にも水の側にも伸びている。


あなたの住所の周りに、どんな痕跡が残っているか。→ 痕跡マップで痕跡濃度を測ってみる

願証寺跡の周りには、桑名市の痕跡が3件ある。

桑名市の痕跡 3件をひらく →

参考・出典

8件出典に基づいて掲載している

訂正履歴

公開後に内容を改めた箇所を、日付とともに記録している。

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