長島城跡(一向一揆の本城と、本丸の西南隅にあった大松)|何があった場所か
桑名市長島町西外面。桑名市は、寛元3年に藤原道家が館を築いた後、長島一向一揆の本城、長島藩の居城を経て、現在は長島中部小学校・中学校の敷地になっていると記す。三重県の散策案内は、その間をもう少し細かく埋める。寛元3年(1245)に前関白藤原道家が長島に流されている時に西外面に館を築き、文明14年(1482年)に伊藤重晴が安濃郡から来てこの地方を占有し、この館跡に城砦を作った。元亀・天正年間(16世紀後半)には一向宗徒がここを攻略し、この城を中心に織田信長軍と戦ったが、敗れて落城した、と同じ案内は続ける。
城跡でいま目に入るのは、学校と、その校庭に立つ一本の松である。桑名市は校内の「大松」を天然記念物であり市の指定文化財だとし、クロマツの大樹で樹齢300年以上と推定され、長島城があった当時は本丸の西南にあったと記す。三重県の案内は、樹高約15m、胸高円周2.8mという寸法を添えて同じことを書く。樹齢300年以上という推定は下限を示すもので、一揆の落城の頃からあった木かどうかは、この数字からは決まらない。
城の建物で残っているものもある。桑名市は、長島城の大手門が明治9年に中町の蓮生寺山門となり、現在も残っていると記す。門の瓦には当時の藩主・増山家の家紋が見られ、建設時よりは小さくなっているが、長島城最後の建造物として貴重なものだという。城の敷地は学校になり、門だけが寺へ移って残った。

近くの痕跡
- 願證寺と長島一向一揆殉教の碑(又木で三度名を替え、明治9年に願証寺を名乗った寺)(死の痕跡・約604m)
- 願証寺跡(長良川の底に沈んだ杉江の寺)(水の痕跡・約3.9km)
- 「四日市」の地名由来(四のつく日の定期市)(地の痕跡・約14.9km)
- 四日市空襲の中心被災地と殉難碑(鵜の森公園)(戦の痕跡・約16.0km)
時のながれ
- 寛元3年(1245年) — 前関白藤原道家が長島に流されている時に、西外面に館を築いたと三重県の案内は記す。
- 文明14年(1482年) — 伊藤重晴が安濃郡から来てこの地方を占有し、館跡に城砦を作る。
- 1570年(元亀元年) — 長島願証寺を中心とした浄土真宗門徒が蜂起し、この城が一揆の本城になる。
- 元亀・天正年間(16世紀後半) — 一向宗徒がここを攻略し、この城を中心に織田信長軍と戦ったが、敗れて落城したと三重県の案内は記す。
- 江戸時代 — 長島藩(2万石)となり、菅沼・松平・増山氏が城主となって明治維新まで続く。
- 明治9年(1876年) — 大手門が払い下げられ、蓮生寺の山門として移築される。
- 現在 — 城跡地に長島中学校と長島中部小学校が建つ。校庭に、樹齢300年以上と推定される大松が立つ。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 桑名市の長島城跡の案内は、寛元3年藤原道家が館を築いた後、長島一向一揆の本城、長島藩の居城を経て現在長島中部小学校・中学校地となっていると記す。所在地は桑名市長島町西外面2175番地とする。
- 同じ案内は、校内の「大松」が天然記念物であり市の指定文化財であるとし、クロマツの大樹で樹齢300年以上と推定され、長島城があった当時は本丸の西南にあったと記す。
- 三重県の「城下町長島の歴史を訪ねて(全行程約5km)」は、寛元3年(1245)前関白藤原道家が長島に流されている時に西外面に館を築き、文明14年(1482年)伊藤重晴が安濃郡から来てこの地方を占有し、この館跡に城砦を作ったと記す。
- 同じ資料は、元亀・天正年間(16世紀後半)には一向宗徒がここを攻略し、この城を中心に織田信長軍と戦ったが、敗れて落城したと記す。
- 同じ資料は、その後幾多の変遷を経て、江戸時代には長島藩(2万石)となり、菅沼・松平・増山氏が城主となり、明治維新まで続いたと記す。
- 同じ資料は、大松の樹高を約15m、胸高円周を2.8mとし、市指定文化財であると記す。
- 桑名市の蓮生寺の案内は、長島城の大手門が明治9年に中町の蓮生寺山門となり現在も残っているとし、門の瓦に当時の藩主・増山家の家紋が見られ、建設時よりは小さくなっているが長島城最後の建造物として貴重なものであると記す。
- 座標は国土地理院の逆ジオコーダで、桑名市(団体コード24205)長島町西外面の区域にあたることを確認した。
そのため、このページではこうしています
- 城跡はいま小学校と中学校の敷地である。子どもが通う場所なので、見るとしても敷地の外からになる。
- 大松の樹齢は300年以上と推定されている。一揆の落城(16世紀後半)の頃からあった木かどうかは、この推定からは決まらない。
- 城の建物で残っているのは、明治9年に寺へ移された大手門だけである。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 落城の年月日を示す桑名市・三重県の資料には到達できなかった。三重県の案内は元亀・天正年間(16世紀後半)と記すにとどまる。
- 城の縄張り・堀の範囲を示す発掘調査の報告には到達できなかった。
- 大松の樹齢をいつ、どのように推定したのかを示す資料には到達できなかった。
- 落城の後に城を誰が管理したのかを、桑名市・三重県の資料からは追えなかった。
- 蓮生寺の所在の書き方が、同じ桑名市の案内の中で揃わない。本文は「中町の蓮生寺」と書き、同じページの所在地欄は「桑名市長島町又木77-1」とする。三重県の案内は、延宝年中(1675頃)に千倉村から中町に寺基を移したと伝えられているが長島に移った時期は定かではない、と記す。
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
この痕跡を掘り下げた記事
参考・出典
4件出典に基づいて掲載している
- 長島城跡
桑名市(公式) - 蓮生寺
桑名市(公式) - 城下町長島の歴史を訪ねて(全行程約5km)
三重県(三重の文化) - 長島一向一揆
桑名市(公式)
訂正履歴
公開後に内容を改めた箇所を、日付とともに記録している。
- :説明文と編集部の調査メモの、大松の樹齢の書き方を改めた。「樹齢300年以上」から、この松は一揆の落城より後に芽を出した木だと計算していたが、300年以上は下限を示す数で、落城の頃からあった木かどうかは決まらないため、そのとおりに書いた。
この場所について
この場所について、いま知っていることを教えてください。