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歴史の痕跡

宝暦治水とは何だったのか — 薩摩藩が築いた油島の締切堤と、明治の三川分流、治水神社・千本松原に残るもの

宝暦治水は、1753年に幕府が薩摩藩に命じた木曽三川の治水工事で、1754年に始まり翌55年に完成した。最大の難所は木曽川と揖斐川の合流点を仕切る油島の締切堤で、犠牲者は資料により80名以上とも88名とも記される。いま油島には治水神社と約1キロの千本松原、宝暦治水之碑が残る。

2026-09-28 | 執筆・編集:痕跡マップ編集部
目次(7項目)

宝暦治水は、宝暦3年(1753年)12月25日に江戸幕府が薩摩藩に命じた、木曽三川の治水工事である。国土交通省の木曽川下流河川事務所によれば、工事は宝暦4年2月27日に始まり、宝暦5年5月22日に完成した。総奉行は薩摩藩の家老・平田靱負。最も難しかったのは、木曽川と揖斐川が合流する油島を仕切る締切堤で、いまその堤の上に治水神社と千本松原、宝暦治水之碑がある。

宝暦治水とは何か

舞台は濃尾平野である。木曽川下流河川事務所は、木曽川・長良川・揖斐川の三本の川が網目のようにつながっているため、濃尾平野では雨が降るたびに水があふれ出したと記す。同じ事務所は、集落を堤防でぐるりと囲んだ「輪中」がこの一帯に広がり、1608年に木曽川左岸の尾張を守る「御囲堤」が築かれた一方、右岸の美濃は大きな堤防を築くことを禁じられ、たびたび水害に悩まされていたと記す。

桑名市は、洪水のたびに木曽・長良両川の水が揖斐川に大量に流れ込み、美濃・伊勢側に水害が起きたと書く。理由として市が挙げるのは、木曽川の川底が揖斐川の川底より1メートルくらい高かったこと、そして美濃・伊勢側には御囲堤より常に1メートルも低い堤防しか許されなかったと言われていることである。

海津市によれば、住民の訴えを聞き入れた幕府が、宝暦3年、薩摩藩にこの工事を命じた。工事の目的について、桑名市は、壊れた堤防の復旧と、三本の川をそれぞれ独立して流す「三川分流」に置かれたと書く。国土交通省は、分流が目的だったが、当時の技術では完全な分流はできなかったとしたうえで、この工事が連続した堤防を築く近代治水工事の始まりになったと記している。

宝暦治水の年表。宝暦3年(1753)12月25日に幕府が薩摩藩に命じ、宝暦4年(1754)2月27日に着工、宝暦5年(1755)5月22日に完成し、同年5月25日に総奉行の平田靱負が亡くなった。命令・着工・完成の日付は国土交通省木曽川下流河川事務所による。
宝暦治水の年表。宝暦3年(1753)12月25日に幕府が薩摩藩に命じ、宝暦4年(1754)2月27日に着工、宝暦5年(1755)5月22日に完成し、同年5月25日に総奉行の平田靱負が亡くなった。命令・着工・完成の日付は国土交通省木曽川下流河川事務所による。

人と金の規模も、資料に残っている。

なぜ薩摩藩だったのか

この工事は「御手伝普請」と呼ばれる。桑名の海蔵寺は、費用と人夫を、命じられた大名が負担する仕組みだと説明している。

なぜ遠い薩摩藩に命じられたのかについて、資料の書き方は一つではない。

桑名市は、二つの見方を並べている。一つは、大名の財力を削いで幕府に反抗させないためで、裕福な藩により多く命じられた、という見方。もう一つは、石高と工事の規模に応じて、20〜30年に1度、各藩に回ってくるものだった、という見方である。どちらも「ともいわれています」と書き、市はどちらかに決めていない。そのうえで、当時裕福だと思われていた薩摩藩には、実際には莫大な累積赤字があったと言われる、と続ける。

国土交通省は、前者に近い書き方をしている。薩摩藩は外様の雄藩で、幕府は大事業を命じて財政負担を強いることで、薩摩藩の勢力の弱体化を図った、という。同じ資料は、藩内で工事を引き受けるかどうかで紛糾し、幕府との開戦論議さえ起こったこと、平田靱負がそれを説いて幕命を受けたことも記している。海津市は、薩摩藩を「外様大名の筆頭」と書く。

油島で何を締め切ったのか

工事の範囲は広かった。海蔵寺は、工事区域が木曽三川の河口から50〜60キロにわたり、193か村に及んだと書く。その中で、木曽川下流河川事務所が「最大の難工事場所」と書くのが、油島の締切である。

事務所によれば、油島の付近では木曽川と揖斐川が合流し、それが水害の大きな原因になっていた。揖斐川へ落ち込む木曽川の水勢は激しく、容易には締め切れなかった。宝暦の工事で締切堤は、一部分を残した堰として完成した。13年後の明和5年(1768年)、徳島藩などの御手伝普請で、船の通り道を持つ洗堰として仕上げられ、完全な締切堤になったのは、明治20年に始まった改修工事のときだった。

岐阜県は、この締切堤の目的を、豪雨を集めた木曽川から揖斐川への逆流を防ぐため、両川の合流点に分川堤を築くことだったと記す。締切堤の工期について、文化庁のデータベースと岐阜県は、宝暦4年4月に起工し、宝暦5年3月に完成したとしている。

油島の締切堤の移り変わりを三段で並べた模式図。宝暦5年(1755)は一部分を残した堰、明和5年(1768)は船の通り道を持つ洗堰、明治20年からの改修で完全な締切堤になった。左が揖斐川、右が木曽川。
油島の締切堤の移り変わりを三段で並べた模式図。宝暦5年(1755)は一部分を残した堰、明和5年(1768)は船の通り道を持つ洗堰、明治20年からの改修で完全な締切堤になった。左が揖斐川、右が木曽川。

記録された犠牲

工事で亡くなった人の数は、資料によって違う。薩摩藩士だけを数えるか、幕府側の役人も含めるか、死因を分けて書くかどうかが、資料ごとに異なっている。以下は、どの資料が何と書いているかである。

死因の記録そのものについて、海蔵寺は一つの例を挙げている。寺によれば、薩摩藩の最初の犠牲者とされる永吉惣兵衛の弔い証文(埋葬の証文)には、死因が「腰の物(刀のこと)にて怪我」と書かれている。寺は、国元に遺言書が届いていることから、これを自害を示す資料と位置づけている。

犠牲は薩摩藩の側だけではなかった。治水神社の周辺には、幕府側の役人でありながら、地元の人が言うことを聞かないために責任を取って自害した内藤十左衛門の顕彰碑がある。

総奉行の平田靱負は、工事が終わった直後の宝暦5年5月25日に亡くなった。その最期は、資料によって書き方が違う。

辞世として伝わるのは「住みなれし里も今更名残にて 立ちぞわづらふ美濃の大牧」。大牧は、国土交通省によれば、いまの岐阜県養老町のうちで、工事の本小屋が置かれた村である。

明治の三川分流で何が変わったのか

宝暦の工事で果たせなかった完全な分流は、明治に行われた。木曽川下流河川事務所によれば、明治政府はオランダから10人の技師団を招き、その一人が明治11年から木曽三川流域を山から海まで調べて回り、改修計画を作った。その結果、明治20年から25年間をかけて三川分流工事が行われ、木曽三川はほぼ現在の姿になった。

この技師の名は、資料によって書き方が違う。国土交通省の事務所は「ヨハニス・デ・レイケ」、治水神社は「デ・レイケ」、海津市は「ヨハネス・デ・レーケ」と書く。調べるときは、どの表記でも探したほうがいい。

改修計画の主な内容として、事務所は、木曽三川を完全に分流すること、佐屋川を廃川にすること、立田輪中に木曽川新川を通すこと、高須輪中に長良川新川を通すこと、そして「油島洗堰を完全に締切る」ことを挙げる。宝暦の工事から明和の洗堰を経た油島の締切は、ここで完成した。

川の位置を引き直す工事は、その下にあったものも動かした。長島一向一揆の拠点だった願証寺の跡は、桑名市によれば明治期の河川改修工事で長良川の川底に沈んだ。→ 願証寺跡(長良川の底になった杉江)/長島一向一揆はどこで起きたのか

宝暦治水之碑が建ったのも、この明治の工事の節目だった。治水神社によれば、永く埋もれていた宝暦の工事を世に広めたのは、三重県多度に住んでいた西田喜兵衛で、明治33年(1900年)、近代の木曽三川の治水工事の成功式にあわせて、時の総理大臣・山県有朋を迎え、油島千本松原に「宝暦治水之碑」が建てられた。

宝暦から明治・昭和までの年表。1755年に宝暦の工事が完成、1768年に明和の洗堰、明治11年にオランダの技師が流域の調査を始め、明治20年から25年間の三川分流工事、明治33年(1900)に宝暦治水之碑、昭和13年(1938)に治水神社の創建。
宝暦から明治・昭和までの年表。1755年に宝暦の工事が完成、1768年に明和の洗堰、明治11年にオランダの技師が流域の調査を始め、明治20年から25年間の三川分流工事、明治33年(1900)に宝暦治水之碑、昭和13年(1938)に治水神社の創建。

いま何が見られるか

岐阜県海津市海津町油島に、締切堤の跡と、その上の松原、神社、碑がまとまって残っている。

千本松原 — 海津市によれば、揖斐川と長良川のあいだの背割堤に、1キロ余りにわたって松並木が続く。松は日向松で、薩摩藩士が宝暦5年、工事の完成後に苗を植えたものと伝えられている。国土交通省は、明治の改修工事で宝暦当時の締切堤は大きく形を変えたとし、いま道路として使われている部分が明治の改修による部分だと書く。この一帯は「油島千本松締切堤」として、昭和15年(1940年)7月12日に国の史跡に指定された。

宝暦治水之碑 — 千本松原の南端に立つ。治水神社によれば、表の題字は山県有朋で、除幕式の日に山県本人がこの碑の文章を読み上げた。碑の裏には宝暦治水の犠牲者の名前が刻まれ、そこには幕府側の犠牲者の名前もある。国土交通省は、宝暦の喰違堰と明和の洗堰があったのは、この碑より南の、松林が途絶えたあたりだと書いている。

治水神社 — 平田靱負を祭神として、昭和13年(1938年)に創建された。海津市によれば、昭和2年の着工から10年の歳月をかけて完成した。神社の西、朱色の隼人橋を渡った先の宝暦治水観音堂には、工事の犠牲者の位牌がまつられている。観音堂は昭和28年(1953年)に建てられ、いまのお堂は昭和58年(1983年)の再建である。毎年4月25日に春の例大祭、10月25日に秋の例大祭と薩摩義士の顕彰式が行われる。神社の周辺にある「近代治水百年記念碑」(昭和62年)には、平田靱負とデ・レイケの二人のレリーフが並んでいる。

油島の位置図。揖斐川と長良川のあいだの堤の上に、治水神社、1キロ余りの千本松原、南端の宝暦治水之碑を置いた。宝暦治水観音堂と隼人橋は位置を置いていない。
油島の位置図。揖斐川と長良川のあいだの堤の上に、治水神社、1キロ余りの千本松原、南端の宝暦治水之碑を置いた。宝暦治水観音堂と隼人橋は位置を置いていない。

油島から離れた場所にも、記録は散らばっている。治水神社は、犠牲者の墓所として、三重県桑名市、岐阜県海津市・養老町・輪之内町・羽島市・岐阜市にまたがる14か寺を挙げている。そのうち桑名市北寺町の海蔵寺には、平田靱負ほか23基の墓石が残り、桑名市の指定史跡になっている。毎年5月25日には追悼の法要が営まれる。鹿児島市の城山町には、大正9年(1920年)に建てられた薩摩義士碑がある。

訪ねるなら

以下は2026年9月28日に公式の案内で確認した内容である。

資料で分かること、分からないこと

確かめられたこと。

確かめられなかったこと。


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願証寺跡の周りには、桑名市の痕跡が3件ある。

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参考・出典

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