🗺 痕跡マップをひらく
歴史の痕跡

軍艦島はなぜ無人島になったのか — 炭鉱が閉じて半世紀

端島は石炭を掘るためだけに開発された島で、学校も病院も炭鉱が人を必要としたから建った。エネルギー革命で石炭産業が衰え、1974年1月に炭鉱が閉山すると、3か月後の4月に全島民が島を去った。いまは長崎市が管理し、上陸できるのは決められた見学通路だけだ。

2026-09-23 | 執筆・編集:痕跡マップ編集部
目次(5項目)

長崎の沖に浮かぶ軍艦島から人がいなくなったのは、あの島が炭鉱のためだけに造られた島だったからだ。長崎市は端島(はしま)を「海底深くに埋蔵する石炭を採炭するためだけに開発された島」と書いている。炭鉱が閉じたのが1974(昭和49)年1月。全島民が島を去ったのが、その3か月後の4月である。

軍艦島は通称で、正式な名は端島という。島の姿が軍艦に似ていることからそう呼ばれるようになった、と長崎市の公式観光サイトは説明している。

島そのものが炭鉱の設備だった

もとの端島は、海に浮かぶ小さな岩塊だった。いまの四角い形は人が造ったものである。世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の公式サイトは、端島炭坑について「採炭量が増加すると、採炭により出てくるボタで、島の周囲を埋立て、島を拡張した」と書く。ボタというのは、石炭を掘るときに一緒に出てくる石や土のことだ。掘れば掘るほど捨て場に困るそれを、そのまま海に積んで陸にした。

広げた土地は波に削られるので、外側を高い護岸で囲んだ。同じ公式サイトは「岩塊の小島を取り巻く新たな土地は、高波から島を守るため、要塞のような護岸に囲まれた」と説明している。軍艦に似た輪郭は、装飾ではなく、掘って埋めて守るという作業の結果として現れたものだった。

石炭が見つかったのは江戸時代で、1890(明治23)年に三菱が島を買ったところから本格的な採掘が始まる、と長崎市の公式観光サイトは記す。産業革命遺産の公式サイトによれば、翌1891年から出炭が始まり、1897年には出炭量で隣の高島を上回った。人が増えれば住む場所が要る。1916(大正5)年には、日本最古とされる鉄筋コンクリート造の高層アパートが島に建った。長崎市は、昭和30年代に「5,300人近くの人が住んでおり、日本一の人口密度を誇っていました」と書いている。産業革命遺産の公式サイトの言い方はもっと端的で、最盛期の端島は「世界で最も人口過密な炭鉱コミュニティであった」。

1890年に三菱が島を買ってから昭和30年代までの端島の歩みを並べた年表
1890年に三菱が島を買ってから昭和30年代までの端島の歩みを並べた年表

学校も、病院も、映画館も、商店も島にあった。ただしそれらは町があったから建ったのではなく、炭鉱が人を必要としたから建った。順番が逆なのだ。ここが、端島がのちに完全な無人島になった理由に直結する。

石炭が主役の座を降りた日

閉山の理由は、島の外側にある。長崎市の公式観光サイトは「エネルギー革命により石炭産業が衰退」したと書く。国内のエネルギーの主役が石炭から石油へ移り、掘っても売れない、あるいは掘るほど合わない状態になっていった。端島の石炭が悪くなったわけではない。

そして1974(昭和49)年1月、端島炭坑は閉山する。長崎経済研究所のレポートは「1974年1月の炭鉱閉山に伴い、同年4月に全島民が退去して無人島となり」と記している。

閉山から全島民の退去までは、わずか3か月だった。ふつうの町なら、産業が傾いてから人が減りきるまでには何十年もかかる。けれども端島では、炭鉱が止まったことと島が無人になったことが、ほとんど同じ出来事になっている。島にあったものは、もともと炭鉱が必要としたから建ったものだった。住民が島を捨てたというより、島のほうが役目を終えた、と言ったほうが実際に近い。

1974年1月の閉山から同年4月の全島民の退去までを示した流れ図
1974年1月の閉山から同年4月の全島民の退去までを示した流れ図

同じ「住民が一斉にいなくなった場所」でも、ダムの底に沈んだ村とは事情が違う。あちらは行政の事業として移転の年も補償も先に決まり、村は水の下に消えた。端島は、産業が終わったあとに建物だけが残った。人がいなくなる理由は一つではない、ということが、二つを並べると見えてくる。

無人になってからのほうが、まだ短い

1974年から数えて半世紀。端島はいま、長崎市が管理している。長崎市は「昭和49(1974)年の閉山後は廃墟となっていました」としたうえで、2014(平成26)年に国の文化財(史跡)に指定され、2015(平成27)年7月には「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産の一つとして世界遺産に登録された経緯を説明している。

1974年の閉山後、2014年の史跡指定、2015年7月の世界遺産登録を並べた年表
1974年の閉山後、2014年の史跡指定、2015年7月の世界遺産登録を並べた年表

同時に、市は現状も隠していない。「閉山後50年を経て劣化が著しく進行しています」と書き、保存のための基金への寄附を呼びかけている。海に囲まれた鉄筋コンクリートの建物は、潮風と波でどんどん傷む。いま島にあるのは、保存された建物というより、崩れていく途中の建物である。

上陸できるのは、南側の通路だけ

端島は2009年4月から一般の上陸ができるようになった。ただし「島に行ける」わけではない。ここは条例ではっきり線が引かれている。

一つ目が長崎市端島見学施設条例(平成20年12月19日 条例第43号)。市が設けた見学施設として桟橋・見学広場・見学通路を定め、使えるのは「許可を受けた者及びその係員並びに許可事業者の船舶により運送された者に限る」としている。つまり、市の許可を受けた船会社の船で行った人だけが、決められた通路を歩ける。

二つ目が端島への立ち入りの制限に関する条例(同じ日の条例第44号)。こちらは短く、「何人も、端島の区域のうち、見学施設の区域以外の区域に立ち入つてはならない」と定める。見学通路の外側は、島の全域が立入禁止ということになる。

さらに、行けるかどうかは天気次第でもある。長崎市観光政策課のページには上陸可否の基準が載っていて、波の高さや風速、周辺海域の視程といった数値が並ぶ。実証実験の条件として示されている数字を見ると、波高の上限が0.6メートル、船の風速計で5メートル以下、視程500メートル以上、といった水準である。海が少し荒れれば桟橋に船が着けない。長崎経済研究所によれば、それでも2009年4月からの15年間でおよそ245万人が上陸している。

二つの条例の内容と、上陸可否の実証実験の条件として示されている波高・風速・視程の数字を並べた図
二つの条例の内容と、上陸可否の実証実験の条件として示されている波高・風速・視程の数字を並べた図

行き方は決まっていて、その外は閉じている。この島に関しては、ルートを守ることがそのまま島を保たせることに直結する。

長崎に残る、もう一つの「形だけが残ったもの」

端島は、人がいなくなったあとに建物だけが残った場所だ。同じ長崎市には、爆風で半分になったまま立ち続けている山王神社の一本柱鳥居がある。片方の柱を失っても倒れなかったという形そのものが、何が起きたかを説明してしまっている。

端島の護岸も、一本柱鳥居も、誰かが意味を込めて残したものではない。使われ方が終わったあとに、たまたま残った。そういうものを地図の上で拾っていくと、土地の履歴が少しずつ読めるようになる。

あなたの住所の周りには、どんな痕跡が残っているだろうか。→ 痕跡マップで痕跡濃度を測ってみる

山王神社 一本柱鳥居の周りに、ほかに何が残っているか。

山王神社 一本柱鳥居のまわりをひらく →

参考・出典

7件出典に基づいて掲載している

訂正履歴

公開後に内容を改めた箇所を、日付とともに記録している。

この記事について

この記事の場所や話について、知っていることを教えてください。

本ページの位置情報・年代・経緯は概略です。掲載内容の確からしさは、ページ内の根拠ラベル(資料確認済み・資料候補・伝承・噂)の区分をご確認ください。 私有地への立ち入りを目的とした利用はご遠慮ください。誤りのご指摘・削除依頼は運営までご連絡ください。