歴史の痕跡
徳山ダムに沈んだ徳山村はいま — 466戸が移転した村の記録
「徳山村」を地図で探しても、もう見つからない。
岐阜県揖斐郡にあったこの村は、徳山ダムの建設で全466戸が移転し、1987年に隣の藤橋村へ編入されて消滅した。集落があった場所はいま、日本最大の貯水量を持つ徳山湖の湖底にある。訪れることはできない。
見に行けない場所について書く意味があるのかと思うかもしれない。だが徳山村は、記録の量が並外れている。村ひとつが地図から消えるとき、人は何を残そうとするのか。この村ほどそれがよく分かる場所はない。
98年間、山の中にあった村
徳山村は1889年(明治22年)の町村制施行で生まれた。揖斐川の最上流部、周囲を山に囲まれた谷あいに本郷・開田などの集落が点在し、1970年の国勢調査では1,583人が暮らしていた。
そこにダム計画が持ち上がったのは昭和30年代のこと。木曽三川の治水と、中京圏の水・電力のための巨大ダムである。水没予定地の全466戸は移転の対象になった。記録によると、331戸は水資源開発公団(現・水資源機構)が造成した集団移転地へ、117戸は県内の別の場所へ、18戸は県外へ移った。村ごとの引っ越しである。
そして1987年4月1日、住民のいなくなった徳山村は藤橋村に編入され、98年の歴史を閉じた。集落単位ではなく、自治体がまるごと消滅する形の廃村である。
ただし「徳山」という名前そのものは消えていない。ダムの名は徳山ダム、湖の名は徳山湖。行政区画としての村は失われても、土地の名は水の名前に引き継がれた。地名が痕跡として残る典型的なかたちだと思う。
日本一のダムが村の上に満ちた
ダム便覧(日本ダム協会)によれば、徳山ダムは堤高161メートルのロックフィルダムで、着工は1971年、竣工は2007年度。洪水調節から水道・工業用水、発電までを担う多目的ダムである。総貯水容量は約6億6,000万立方メートルで、貯水量は日本一。村がまるごと入っていた谷が、そのまま日本最大の水がめになった。
数字を並べると簡単に見えるが、計画の浮上から完成までおよそ半世紀、着工から数えても36年かかっている。移転の交渉、補償、集団移転地の造成。村を空にするというのは、それだけの時間を要する事業だった。そして移転した元村民の多くは、自分の家があった谷が水で満ちていく過程を、移転先から見届けたことになる。
カメラを持ったのは、還暦を過ぎてからだった
調べていて手が止まったのは、一人の村民の記録だ。
増山たづ子。1917年に徳山村で生まれ、還暦を過ぎてから初めてカメラを手にした。理由はただひとつ、沈むと決まった故郷と村人を撮っておくためである。以後30年近く、田植えも祭りも雪下ろしも撮り続け、その数は10万カットに及んだ。1985年には写真集『ふるさとの転居通知』が出版されている(東京都美術館の作家紹介による)。
増山さんが亡くなったのは2006年。村が完全に湖底へ沈んだのは、その後のことだ。残されたフィルムは現在も写真展などで公開され、湖の下にあった暮らしを、いまも私たちに見せ続けている。
いま見に行けるのは「岸」である
繰り返しになるが、旧徳山村の集落は湖底にあり、訪れることはできない。ただし、村の記憶を確かめられる場所は湖の岸に用意されている。
揖斐川町の公式観光情報によると、徳山湖畔には徳山会館(揖斐川町開田280番地1)が建ち、旧徳山村とダムに関する展示を行っている。旧村民が故郷に集える場として整備された施設で、12月から3月は冬期休館となる点だけ注意したい。湖を見下ろす高台には、各集落の名を刻んだ碑も立つ。
旧徳山村の位置・年表・出典はスポットページにまとめてある。また、ダムに沈んだ村は徳山だけではない。御母衣ダムの旧荘川村のように木を岸へ移した村もあれば、渇水の年にだけ旧役場が湖面に現れる村もある。全国7つの湖については「湖の底に、村がある」で一枚にまとめた。
村は沈んだが、記録は沈まなかった。466戸の移転という行政の記録と、10万カットの写真という個人の記録。規模の違うふたつの記録がこれだけ揃って残っている村は、日本中を探してもそう多くないはずだ。
古い地形図を開けば、湖の青いところに「徳山」の文字と集落の記号がまだ載っている。地図は更新されると前の版が消えてしまうけれど、国土地理院の旧版地形図や図書館の郷土資料をたどれば、湖になる前の谷の形は誰でも確かめられる。見に行けない場所でも、調べには行ける。それがこの村について書いた理由である。
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