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歴史の痕跡

御母衣ダムに沈んだ旧荘川村 — 湖畔へ移された荘川桜の記録

2026-08-20 | 執筆・編集:痕跡マップ編集部

2026年の夏、岐阜県の御母衣湖(みぼろこ)の水が減った。

減りかたが尋常ではなく、ふだんは水面の下にある地面が広い範囲で空気に触れている。そこに、コンクリートらしき構造物や、建物があったらしい跡が見えている。地元局の取材にも「あそこにおそらく橋があったんであろうコンクリート」「むかし家があったであろう跡」という言葉が出てくる(チューリップテレビ、2026年8月10日)。写真がSNSに流れて、大きな話題にもなった。

この湖の下には、村があった。1961年に完成した御母衣ダムで水没した、旧荘川村(現・高山市荘川町)と白川村の集落である。

先に書いておくと、露出しているのは発電用ダムの貯水池の底で、電源開発(J-POWER)が管理する区域だ。見物に行く場所ではない。ここでは、そこに何があったのかを資料で確かめる。

何が起きているのか

国土交通省北陸地方整備局 富山河川国道事務所の記者発表(令和8年8月7日)によると、令和8年7月以降、庄川上流域では特に岐阜県内の降水量が例年より少なく、河川流量が低下傾向にある。これを受けて関係する利水者による「庄川渇水情報連絡会」が8月6日に開かれ、各利水者が自主的に取水量を「水利権許可量の2割減」に制限する取水調整を行うことが確認された。連絡会の構成には富山県や砺波市・高岡市の水道部門と並んで、電源開発の御母衣電力所の名前も入っている。

雨の少なさは数字で見ると極端だ。御母衣の観測で、7月は平年の30パーセント、8月は1日から9日までで平年の7パーセントしか降っていない(チューリップテレビ)。報道によれば、富山県内で取水制限がかかるのは32年ぶりになる。北日本新聞は8月18日の記事で、17日時点で放流に使える水の下限となる最低水位まで5.35メートルと伝えている。

渇水の年に湖底が現れるのは、御母衣に限った話ではない。2026年2月には愛知県の宇連ダムでも湖底の集落跡が露出し、管理する水資源機構が「通常、水につかっているところなので、当然人が通るための安全対策が何もできていない状況」として立ち入りを控えるよう呼びかけている(名古屋テレビ)。地面は固まっておらず、雨や放流で水位はいつでも戻る。

御母衣湖でも、見えている湖底へ下りてはいけない。管理者の表示や現地の立入規制に従い、写真のために道路上で危険な駐停車をしないこと。痕跡を知ることと、整備されていない場所へ踏み込むことは別の話だ。

岩を積んで谷をせき止めた

ダム便覧(日本ダム協会)によると、御母衣ダムは庄川水系庄川に造られた堤高131メートル、堤頂長405メートルのロックフィルダムだ。着工1957年、竣工1961年。事業者は電源開発で、目的は発電だけ。総貯水容量はおよそ3億7,000万立方メートル、湛水面積880ヘクタール。

コンクリートの壁ではなく、岩石を積み上げて水を止める方式で、この規模のものは日本で初めてだった。ダム便覧はこれを「20世紀のピラミッド」と形容された我が国初の大規模ロックフィルダムと記している。既設のロックフィルダムとしては、いまも総貯水容量で徳山ダムに次ぐ国内第2位である。

この水をためるために、谷にあった集落が移転の対象になった。

230戸と、7年の交渉

ダム便覧は水没戸数を230戸とし、牛丸・尾上地区の一部と岩瀬・赤谷・中野・海上地区が水没したと記す。一方、事業者であるJ-POWERの資料は「白川村の一部と荘川村の1/3が湖底に沈むことになった」として、240の家々、1,200人の住民という数え方をしている。数字が食い違うのは、どこまでを数えるかが資料によって違うためで、同じ範囲を数えた値とは言えない。

交渉の経緯は、岐阜大学のサイトに載る年表(「御母衣ダムと荘白川地方の50年」より)が細かい。1952年(昭和27年)6月23日に反対の組織ができ、翌1953年1月には「御母衣ダム絶対反対死守会」が結成される。J-POWERの資料には、174世帯が決起したとある。

膠着が動いたのは、1956年(昭和31年)5月8日に結ばれた「幸福の覚書」だった。電源開発が立退き住民に対して、今以上に幸福と考えられるよう会社の責任でその方策を立案実行する、と約束した文書である。ここから立ち退き交渉が進み、1959年(昭和34年)11月に死守会は解散した。計画が持ち上がってから7年が経っていた。

この覚書の文面のところで、しばらく先へ進めなくなった。補償額でも工期でもなく「今以上に幸福と考えられるよう」という言い方をしている。約束としては漠然としすぎている。ただ、そこまで書かなければ話が動かなかった、ということでもあると思う。

桜は600メートルだけ動かされた

水没予定地の中野地区には、光輪寺と照蓮寺という2つの寺があった。その境内に、ヒガン桜の老木が立っていた。

J-POWERの「荘川桜物語」によれば、樹齢は450余年。電源開発初代総裁の高碕達之助がこの桜を移すことを発案し、実際の工事を指導したのは「桜博士」と呼ばれた笹部新太郎である。生きた巨木を移植するという発想は当時なく、桜はいったん伐られることに決まっていた。

1960年(昭和35年)12月24日、移植が完了した。光輪寺の桜が約35トン、照蓮寺の桜が約38トン、合わせて73トン。移動距離600メートル、高低差50メートル。

600メートル、というのがこの話の要点だと思う。桜は遠くへ運ばれたわけではない。水没する境内から、同じ谷を50メートル登ったところへ置き直された。2本は根づき、いまも毎年花をつけている。岐阜県の指定天然記念物で、所在地は高山市荘川町中野。水没した集落と同じ「中野」という地名が、水面の上に住所として残っている。樹齢は岐阜県の観光公式サイトでは500余年とされていて、450年余という数字は移植当時の推定だと考えると辻褄が合う。

寺の建物も残っている。照蓮寺の本堂は永正年間(1504年から1521年)の建立と伝えられ、高山市の文化財説明によると、昭和33年から35年にかけて高山市堀端町の城山公園内へ移築された。国の指定を受けたのは移築より前の昭和31年6月28日で、指定された建物がそのまま谷を出たことになる。

見に行けるのは、岸の側

湖底の集落跡は、行って見る場所ではない。ただ、この村とダムの記録は岸に集められている。

荘川桜は高山市荘川町中野、国道156号沿いの湖岸に立つ。J-POWERの案内では東海北陸自動車道の荘川インターチェンジから車で約15分。標高が高いぶん開花は遅く、見頃は4月下旬から5月上旬とされる。

ダムサイト側には、J-POWERが運営する「MIBOROダムサイドパーク 御母衣電力館・荘川桜記念館」がある(岐阜県大野郡白川村牧140-1)。開館は9時から16時、毎週水曜が休館日で、ゴールデンウィーク・夏休み・10月10日から11月10日は原則無休。12月16日から3月14日は冬期休館になる。ダム建設と桜の移植の記録は、ここに展示されている。

水が戻れば、また見えなくなる

渇水で現れた集落跡は、雨が降れば水面の下に戻る。むしろそれが本来の状態だ。

一方、桜と本堂は水位と関係なく、いつでも見られるところに置き直されている。交渉に7年かかったこと、覚書に「幸福」という言葉が入ったこと、73トンの木が600メートルだけ動かされたこと。湖の水が満ちても、この記録のほうは沈まない。

旧荘川村の位置・年表・出典はスポットページにまとめてある。全国7つの水没した村を並べた「湖の底に、村がある」、466戸が移転した旧徳山村の記録もあわせてどうぞ。

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参考・出典

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