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歴史の痕跡

方違え(かたたがえ)とは — 平安貴族の引っ越し作法と、いまの方除け神社

目的地が天一神などのいる「塞がり」の方角にあたるとき、前の晩に別の方角へ泊まってから向かう、平安から鎌倉の貴族の作法だ。記録上の初例は865年とされる。江戸時代には枕だけを動かす形になり、堺の方違神社や京都の城南宮で土を受けて撒く方除けは、その簡略化の末の姿にあたる。

2026-09-09 | 執筆・編集:痕跡マップ編集部
目次(7項目)

平安時代の貴族は、引っ越しや外泊の前に、わざわざ遠回りをして別の家に一晩泊まった。目的地が「塞がっている」方角にあたる日は、そのまま向かってはいけないとされたからだ。この作法を方違え(かたたがえ)という。

方違えは、平安から鎌倉の貴族社会で実際に運用されていた方角の回避手順である。そして、いま堺と京都に残る方除け(ほうよけ)の社は、その手順が簡略化された末の姿だ。神社に参る、境内の土をもらって撒く——という現在の形は、本来の方違えとはだいぶ違う。

方違えとは「前の晩に、別の方角へ泊まる」こと

デジタル大辞泉は方違えを、陰陽道で外出するときに天一神(なかがみ)・金神(こんじん)などのいる方角を凶として避け、前夜、他の方角で一泊してから目的地に行くことと説明する。平安時代に盛んに行われた、とも書く。

精選版日本国語大辞典の説明はもう少し細かい。他出する時、それが忌むべき方角に当たっている場合、前夜に別の方角へ行って泊まり、改めて目的の場所へ行くこと。生年の干支によって避けたり、自家を避けて他家へ行ったりもする、とある。読みは「かたたがえ」「かたたがい」の両方が載る。

言葉としての用例は古い。同辞典が初出例に挙げるのは『古今和歌集』雑上・八七六の詞書、「方たがへに人の家にまかれりける時に」。10世紀初めの歌集で、すでに「方違えのために人の家に行った」という状況が、説明なしで通じている。

記録としての最古は9世紀だ。改訂新版世界大百科事典(村山修一執筆)によれば、865年(貞観7)8月21日、清和天皇が東宮から内裏に移ろうとしたところ、天皇の本命が庚午(かのえうま)で、東宮から内裏へ向かう乾(北西)は絶命にあたるゆえ避けるべきと陰陽寮が上奏し、いったん太政官曹司庁に入った。これが方違えの初例とされている。

865年に清和天皇が内裏へ移ろうとして太政官曹司庁に入った、方違えの初例とされる経緯の流れ図
865年に清和天皇が内裏へ移ろうとして太政官曹司庁に入った、方違えの初例とされる経緯の流れ図

天皇の引っ越しが、方角の計算で一度足止めされている。

方角が「塞がる」のは、44日かけて八方を回る神がいるから

では、なぜ方角に良し悪しが出るのか。生年の干支から個人の凶方を割り出す方式もあるが、平安期に広まったのは、方位の神が巡回しているという考え方だった。その代表が天一神である。

デジタル大辞泉によると、天一神は己酉(つちのととり)の日に天から下り、東・西などの四方に5日ずつ、北東・南東などの四隅には6日ずついて合計44日、癸巳(みずのとみ)の日に正北から天に上って16日間天上にいて、また己酉の日に下って同じように巡る。この神が遊行する方角を「塞がり」といい、その方角に向かう場合に方違えをする。

5日×4方+6日×4隅で44日。天に上っている16日は、塞がりのない期間になる。これを天一天上(てんいちてんじょう)という。

天一神が四方に5日ずつ・四隅に6日ずつで合計44日巡り、16日間天上にいることを示した図
天一神が四方に5日ずつ・四隅に6日ずつで合計44日巡り、16日間天上にいることを示した図

面白いのはここだ。天一天上の間は何事も吉とされた。世界大百科事典は、藤原実資がその日に寝殿の檜皮を葺かせたと伝える。方角の障りを気にしなくてよい16日に、屋根の工事を入れたわけである。平安貴族の暦は、禁止事項の一覧というより、工程表として使われていた面がある。

『源氏物語』にも方違えは出てくる

方違えは、物語の場面としても残っている。世界大百科事典は『源氏物語』の二つの巻を挙げる。

「手習」の巻では、僧都が長谷寺参詣の帰り、病んだ母尼を小野の家へ連れ戻すべきところを、天一神の方塞りのため宇治院に移した。「帚木」の巻では、源氏が内裏から方塞りの左大臣邸へ来てしまい、女房たちのすすめで伊予守の家へ移る。

方違えが、物語の筋を動かす装置になっている。行き先が塞がっていれば、別の家に泊まる理由が自然に立つ。誰と誰が同じ屋根の下で一晩を過ごすことになるかも、その日の方角しだいで変わる。

「方位のない土地」に建つ社 — 堺の方違神社

作法が特定の場所と結びついた例が、堺と京都に残っている。ひとつは大阪府堺市堺区の方違神社だ。

神社の由緒は、奉斎地が摂津・河内・和泉の三国の境界であるため三国山・三国丘とも称され(「堺」の地名もこれに由来すると説明する)、この三国の境はどこの国にも属さない「方位の無い清地」であるという考え方により、境内の御土(おつち)と菰(こも)の葉で作られた粽(ちまき)が悪い方位を祓うという信仰を集めてきた、と説明している。

理屈は明快だ。方角が問題なのだから、どの国にも属さない土地——方位のない場所の土を持ってくればよい。「自分が移動して方角を変える」から「方位のない土地の物を持ち帰る」への置き換えである。

同じ由緒には、奈良時代には行基が伏屋を設けて人馬往来の要衝として栄え、平安時代には熊野詣の通過地点であったため熊野詣の人々が参詣して旅の安全を祈ったという説明もある。方角の作法は、旅の実務と地続きだった。

都の南の「方除の大社」 — 京都の城南宮

もうひとつは京都市伏見区の城南宮。方除の大社として知られる社である。

公式の説明では、方除とは、日々の暮らしの中で知らずに悪い方位に行くことや家の間取りが良くないことがあるため、方位の障りや家相の心配がないように祈願すること。建物の工事や引越、通勤・通学・営業・旅行に伴う方除、八方塞がり除の祈願に全国から参拝がある、と書かれている。四方・四角の八方に天地を加えた十の方向を守る「十方円満」という言い方も紹介されている。

世界大百科事典のほうは、城南宮について、禁忌の方向に造作したり転宅したりするとき、境内の土を持ち帰ってまけば災いを避けられるという俗信を伝えている。堺の御土とまったく同じ構造だ。

堺の方違神社の御土と京都の城南宮の境内の土を並べた比較表
堺の方違神社の御土と京都の城南宮の境内の土を並べた比較表

江戸時代には「枕だけ動かす」方違えになった

作法がどう軽くなっていったかまで、事典は書き残している。

世界大百科事典によると、公家の方違えは夜、車に乗ってしかるべき地点へ行き、そこで車を止めて夜を明かし、明け方になって戻るものだった。鎌倉時代には武家にも見られ、1241年(仁治2)、多摩川の水を武蔵野の水田へ引くにあたって土公神の禁忌があるとして、第4代将軍藤原頼経が秋田城介義景の武蔵野鶴見別荘へ方違えをしている。前例のない珍しいことだった、とも書かれている。

そして江戸時代には「形式化して枕だけを移動させる風が生じた」。

よその家に一晩泊まる、から、車で夜を明かして帰る、枕を動かす、社で土を受けて撒く、へ。同事典の執筆者は、方忌の呪術が簡略化された結果、方違え本来の意味はまったく一変してしまったと書いている。手順が軽くなるほど、元の理屈は見えなくなる。

よその家に一晩泊まるから社で土を受けて撒くまで、作法が軽くなっていった順を示した流れ図
よその家に一晩泊まるから社で土を受けて撒くまで、作法が軽くなっていった順を示した流れ図

いま自分の家の方角を調べるなら

現代の引っ越しで方違えを再現するのは、正直むずかしい。前の晩に別の方角の家へ一泊してから新居に入るには、都合のよい方角に泊めてくれる相手がいなければならない。

一方で、方角そのものは自分で正確に出せる。方位磁石が指す北と地図の北がずれるという落とし穴も含めて、手順は鬼門の方角の調べ方にある。方位を気にするなら、まず地図の上で自宅の北東と南西を確定させるほうが、順番としては先になる。

そのうえで方除けの祈願をしたいなら、堺の方違神社も京都の城南宮も、今日まで方除の祈祷を受け付けている(受付時間や休日は各社の案内で確認してほしい)。1100年前の作法が、参拝という形で今も窓口を開いている土地は、そう多くない。

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参考・出典

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