方違神社(三国の境と「堺」の地名)|何があった場所か
摂津・河内・和泉の三国の境に鎮座する社。神社の由緒は、この地が『万葉集』に「三国山」と詠まれ、「三国丘」とも称されたこと、そして三国の境であることが「堺」の地名の由来であることを記す。奈良時代には行基が伏屋を設けた人馬往来の要衝、平安時代には熊野詣の通過地点であったとも伝える。鎮座地の住所は、いまも堺区北三国ヶ丘町である。

近くの痕跡
- 旧天王貯水池(明治の煉瓦造水道遺構)(水の痕跡・約337m)
- 「三国ヶ丘」と三国の境(市名「堺」の由来)(地の痕跡・約1.2km)
- 堺環濠都市の濠跡(土居川・内川)(水の痕跡・約1.3km)
- 鉄炮鍛冶屋敷と「鉄砲町」(鉄砲鍛冶の町の痕跡)(地の痕跡・約1.7km)
時のながれ
- 伝承(崇神天皇8年/紀元前90年) — 社伝によれば崇神天皇8年12月、勅願により物部大母呂隅足尼を茅渟の石津原に遣わせ須佐之男神を祀らせたのが創祀の起源とされる。史実確定ではなく神社側の社伝・由緒書きに基づく伝承。
- 古代〜中世 — 摂津国・河内国・和泉国の境界(三国山、現・三国ヶ丘)に鎮座し、いずれの令制国にも属さない「方位のない地」とされ、方違え・方除けの信仰対象として知られるようになったとされる。
- 奈良時代 — 行基が伏屋を設け、人馬往来の要衝として栄えたと神社の由緒は記す。
- 平安時代 — 熊野詣の通過地点にあたり、熊野詣の人々が参詣して旅の安全を祈ったと神社の由緒は記す。
- 現代 — 鎮座地の住所は堺区北三国ヶ丘町。かつて参道脇にあったとされるくろがねもちは、昭和48年(1973)に大阪府の天然記念物に指定された。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 『万葉集』の三国山の歌、三国丘の呼び名、「堺」の地名が三国の境に由来すること、行基の伏屋と熊野詣の通過地点のことは、神社の公式の由緒ページで確認した(2026-09-28)。
- 鎮座地の住所(堺区北三国ヶ丘町2-2-1)は神社の公式のアクセスページで、かつて参道脇にあったとされるくろがねもちが大阪府の天然記念物(昭和48年指定)であることは堺市の公式で確認した(2026-09-28)。
そのため、このページではこうしています
- 座標は実際の所在地(堺東駅の南東)である。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 創建の年代(崇神天皇8年)は社伝によるもので、史実として確定しているわけではない。
- 「堺」の地名の由来は神社の由緒の説明で、地名辞典など別系統の資料との照合はまだしていない。
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
この痕跡を掘り下げた記事
⛩ この土地の福跡
同じ土地の、受け継がれてきた側の顔だ。
- 方違神社(方災除けの信仰)同じ社を、方災除けの信仰の側から見たページ。
参考・出典
4件出典に基づいて掲載している
- 方違神社公式サイト|由緒
方違神社 - 方違神社公式サイト|アクセス
方違神社 - 方違神社公式サイト|御祭神
方違神社 - 方違神社のくろがねもち
堺市(文化財ページ)
訂正履歴
公開後に内容を改めた箇所を、日付とともに記録している。
- :名前を「方違神社(堺市・方除けの社)」から「方違神社(三国の境と『堺』の地名)」に改め、要約を方除けの信仰の説明から、三国の境と地名の由来の説明に書き替えた。年表の現代の項(ちまき祭)を、鎮座地の町名とくろがねもちの記述に替え、奈良時代と平安時代の項を足した。福跡マップの同じ社のページと中身が重ならないようにするため。時のながれの創祀の日付「12月29日」を、神社公式の御祭神のページどおり「12月」に改めた。29日は掲げた出典に見当たらなかったためだ。参考・出典に、そのページを加えた。
この場所について
この場所について、いま知っていることを教えてください。