片埜神社(野見宿禰の拝領地と大坂城の鬼門の方角)|何があった場所か
枚方市牧野に鎮座する古社。大阪観光局は、垂仁天皇のころ出雲の豪族・野見宿禰が当麻蹴速との相撲に勝った恩賞としてこの地を拝領し、建速須佐之男命を祀ったのが始まりといわれると紹介する。
戦国の兵火で荒れたのち、豊臣秀吉が大坂城の鬼門を守る神として庇護したとされ、慶長7年(1602)には豊臣秀頼が片桐且元を総奉行に本殿などを造営した。この本殿は国の重要文化財である。大阪城(中央区大阪城1番1号)の地点から地図上で測ると、この社は北東へ直線約22キロ、真北から時計回りに約37度の方角にある。

近くの痕跡
- 石清水八幡宮(平安京の裏鬼門を守る社と伝わる)(方位の痕跡・約5.2km)
- 伏見港と三栖閘門(水の痕跡・約12.2km)
- 巨椋池の干拓(京都府下最大の淡水湖が消えた国営干拓地)(水の痕跡・約12.8km)
- 鳥羽伏見の戦い 勃発地(小枝橋・鳥羽離宮跡公園)(戦の痕跡・約13.9km)
時のながれ
- 古代 — 延喜式内社。伝承では垂仁天皇の時代に野見宿禰がこの地を賜り創祀したと伝わる古社。
- 安土桃山期 — 戦乱で荒廃したが、豊臣秀吉が大坂城築城に際し、鬼門(北東)の方角にあたるこの社を鬼門鎮護の社と定めて復興したと伝わる。
- 1602年(慶長7年) — 豊臣秀頼が片桐且元を奉行として本殿などを再建。本殿(三間社流造・檜皮葺)は国の重要文化財。
- 現代 — 大阪城の地点から北東へ直線約22キロ(地図上の計測)。本殿は文化庁の国指定文化財等データベースに、慶長7年(1602)の三間社流造・檜皮葺の重要文化財として載る。
編集部の調査メモ
資料で確認できたこと
- 公式サイトが「大阪城鬼門除・鬼門鎮護」を掲げていることを確認した。本殿は重要文化財で、豊臣秀頼の再建・片桐且元の奉行によるものとされる。
- 野見宿禰が相撲の恩賞としてこの地を拝領したという始まりの伝え、戦国の兵火による荒廃、秀吉の庇護、秀頼による本殿などの造営は、大阪観光局の紹介で確認した(2026-09-28)。
- 本殿が慶長7年(1602)の建物で、三間社流造・檜皮葺の重要文化財であることは、文化庁の国指定文化財等データベースで確認した(2026-09-28)。
そのため、このページではこうしています
- 大阪城からの距離と方角は、国土地理院の住所検索で得た「大阪市中央区大阪城1番1号」の点(北緯34.6852度・東経135.5257度)と、この社の座標から計算した(約21.7キロ・約37度)。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
- 鬼門を鎮めるという由緒そのものは伝承に基づくもので、それ以上さかのぼれる資料には到達していない。
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
⛩ この土地の福跡
- 片埜神社(方位・鬼門除けの信仰)同じ社を、方位除けの信仰の側から見たページ。
参考・出典
4件出典に基づいて掲載している
- 片埜神社(公式サイト)
片埜神社 - 片埜神社 - Wikipedia
Wikipedia - 片埜神社|大阪城の鬼門を守る国重文の社
大阪観光局(OSAKA-INFO) - 片埜神社本殿(国指定文化財等データベース)
文化庁
訂正履歴
- :名前を「片埜神社(大坂城鬼門鎮護の社と伝わる)」から「片埜神社(野見宿禰の拝領地と大坂城の鬼門の方角)」に改め、要約を書き替えた(野見宿禰の拝領の伝え・秀頼の造営・大坂城からの距離と方角を加えた)。年表の現代の項を、信仰の説明から本殿と位置の記述に替えた。福跡マップの同じ社のページと名前・要約がほぼ同じだったため。
この場所について
この場所について、いま知っていることを教えてください。
この近くで、地図に載っていない痕跡を知っていたら教えてください。運営者が確かめてから地図に載せます。
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