中島大水道跡|何があった場所か
江戸前期に22か村の農民が自力で開いたと伝わる排水路「中島大水道」の跡。悪水(排水)や滞留水を大阪湾へ流す目的で造られ、明治期の淀川改修まで機能した後、市街地化で道路等に姿を変えたとされる。
時のながれ
- 江戸前期(延宝6年・1678年) — 摂津国西成郡北中島地域(現・東淀川区/淀川区/西淀川区)の22か村の農民が、悪水と滞留水を海へ流すため自力で排水路を開削。工事費約2,000両のほとんどを地元負担し、全長約9.5km・幅平均22mの大水路を完成させた(大阪市公式は約50日、Wikipediaでは約28日説も紹介)。
- 江戸期 — 幕府負担の『公儀普請』を嘆願したが『百姓普請』(住民負担)を命じられたとされ、その顛末にまつわる義人伝説(主唱者3名の自害)が伝わる(大阪市公式ページ自身が『伝説』と明記する伝承レベルの逸話)。
- 明治32年(1899年) — 淀川改修工事により大水道はその役割を終えるまで長く住民に恩恵を与えたとされる。
- 現代 — 市街地化に伴い道路等に姿を変え、東海道新幹線高架・十三バイパス・大野川緑陰道路等が跡地利用の一部とされる。東淀川区西淡路五丁目1の新幹線高架下に『中島大水道顕彰碑』と『新太郎松樋』の石柱が設置されている。
編集部の調査メモ
このページを作るにあたって、編集部が何を確認したか、このページでどう扱ったかを記録しています。
資料で確認できたこと
- 大阪市の史跡紹介ページで、開削年(延宝6年=1678年)、目的(悪水と滞留水を海へ流すため)、規模(全長約9.5km、幅は平均22m、工事費約2,000両を村側が負担)、機能を停止した時期(明治32年の淀川改修)を確認した。
そのため、このページではこうしています
- 主唱者3名が自害したという義人伝説は、大阪市の公式ページ自身が「伝説」と明記している逸話である。
- 座標は公式に記載された住所(東淀川区西淡路五丁目1・新幹線高架下)に基づくが、地図上での実測はしておらず、数十m単位のずれが残る可能性がある。
現地確認: 未実施
❓まだ分かっていないこと
この場所には、資料ではまだ確認できていない事柄がある。
- 完成までにかかった日数は、大阪市の公式が約50日とするのに対し、約28日とする異説もある。数えている工期の範囲が同じかは確認できていない。
参考・出典
- 11.中島大水道跡 - 大阪市
大阪市(建設局・自治体公式) - 中島大水道 - Wikipedia
Wikipedia(補助資料) - 中島大水道の歴史 - 大阪市(西淀川区)
大阪市西淀川区役所(自治体公式)
🗺 この地点を明治の地図で見る(今昔マップ on the web)
近くの痕跡
- 柴島(くにじま)— 旧中津川・神崎川の中州と柴島城跡(地の痕跡・約1.4km)
- 旧毛馬第一閘門(淀川改良工事・新淀川開削の遺構)(水の痕跡・約2.5km)
- 南浜墓所跡(大坂七墓)(死の痕跡・約3.6km)
- 「豊崎」地名と難波長柄豊碕宮伝承(豊崎神社)(地の痕跡・約3.7km)